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 絶滅

日本GAPニューズレター 第12号 1962年9・10月号 より

先般のニューズレターの記事で(注:ハニー氏のニューズレター)ハニー氏は人間の絶滅について書きました。その記事は立派なものでしたが、読者のなかにはそれを読んで当惑した人もあったようです。

 我々が人間の創造された目的を達成しようとすれば、我々は甘いものとともに苦いものをもなめることを知る必要があります。人生は一面だけで成り立っているのではありません。我々がちょっと立ちどまって大抵の人の生き方を仔細に観察するならば、一体人間は進化しようとしているのかどうかに疑問が生じてきます。殆どの生命界に寄生虫が存在するように、人間界にも寄生虫がいます。彼らは生きようという努力のもとに立派に振舞って知的に見えるかもしれませんが、自分自身の狭い世界に閉じ込められています。よく調べてみますと、彼らの努力はきわめて個人的なもので、自己の行為の90パーセントは個人的満足のためになされているのです。これは"宇宙の目的"からかけ離れています。

 長年月のあいだいささかも変化することなく大多数の他人のために不孝と悲惨とを生み出してきた人々のやり方を人間は一体見たいのでしょぅか。それとも戦闘的な人や、誤った噂をまき散らして自分たちが始めた物事を何一つ達成しない人々を見たいのでしょうか。

 "宇宙の計画"に従った全自然は全創造物を平等に扱い、仕事を達成されないままに残したりはしません。このことからして我々は永続する生命の状態を学びとる必要があります。自然は永続的なものであるからです。それは絶えざる変化の状態にありますが、"宇宙の計画"からそれることはありません。自然はその目的に役立たないものを常に取り除くのです。

 人間は一つの目的のために二本の腕を与えられましたが、もし一本の椀を自分の体に縛りつけてそれを全然使用しなければ、まもなく椀は衰えて自分にとって役立たなくなってしまいます。

 "宇宙の目的"に無用となった種は自然は排除しなかったでしょうか。しかし人間の場合は違います。

 これについては二つの考え方があります。無神論者または 不可知論者を自称する人は、あなたがこの世を生き終わった時、完全に無になると言うでしょぅ。逆に、生命は永遠に続くのだと主張する人もあるでしょぅ。この両方とも正しいのです。それはもし、かかる可能性がなかったならば我々はどちらか一方について考えることができないからです。すなわち思想(複数)は事物であるからです。生命を持つためには永続する"もの″がそれを得なければなりません。これが、イエスが次のように言った理由です。

 「良い実を結ばない木は切られて火の中に投げ込まれる」また、彼は実のなっていないイチジクの木を呪いましたが、これは、万物はその創造者に奉仕して報いるべきであって、自己の姿の栄光を自分自身に帰せるべきではないという意味ですけれども、多くの人間はこれをやっているのです。

 はっきり申しますと、もし永続きしようとするのならば万物は自己が創造された目的に役立たねばなりません。イエスは次のよぅに言っでいるではありませんか。「肉体を斬る者を恐れないで魂を斬る者を恐れよ」ヒンズー教徒の如き求道者たちは、もし人間が創造きれた目的のために役立たなければ、本人は人間としてでなく動物か爬虫類または植物となって生まれかわると教えています。これは火の中へ投げ込まれる木と同じことです。つまり、再び木にはならないのです。その一部はガスとなって放たれ、その一部は灰として残り、再び利用されるでしょうが、もとの木にはなりません。これは、"宇宙の計画"に自己を一致させない人にもあてはまります。本人の各元素は(肉体の原子は)他の麺で役立ち続けるでしょうが、一つの自我としての本人は再び存在しないでしょう。

 自我とは個性または俗念です。だからこそ聖書に俗念は滅びるために生まれると述べてあるのです。それは一、二種類の死を経るかもしれません。しかしそれは滅びなければならないのです。

 神の計画にたいする謙虚な召し使いほなるためには一種の"死"が自我自体のために存在します。このようにして自我は永遠の生命を得るのです。一滴の水を例にあげますと、もしそれが自分で存在して自身の目的にのみ役立つだけならば、やがてそれは蒸発して再び同じ水滴にはならないでしょう。一方、この水滴が海洋と一体化するならば、個別的な水滴としての正体を失うことになるかもしれませんが(つまり個体としては死を経ることになるのですが)しかしそれは永遠の生命を得ることになり、水滴としてのきまざまの体験を持つことになって、その体験を海洋の体験と一致させることになりせす。これは海洋が存続する限り続くでしょう。ところが、そうしなかったならばその水滴はきわめて短い生命とただ一滴の水としての体験だけを持つことになり、ついには蒸発して存在しなくなってしまいます。

 ちょうど水滴がその魂である生命を持ったように(この魂はもと海洋の魂に属していた)、人間がどうして二つの魂から成っているかがここでおわかりになるでしよう。水滴が海洋へ帰ってゆくのは、放蕩息子が謙虚な気持ちになって再び家へ帰り、家族と一体化するのと似ています。水滴であったときの水は一つの独立した魂として行動していました。我々はそれを"個体"と呼んでいます。それは海洋の近くへ寄りつかず、孤立して、白身の利己的な欲望のままになっていました。それは他のすべてのものから分離した物としてその独立性を表わしていたわけです。その水滴は自分自身と自分の幸福のみに関心を持ちましたので、その結果多くの恐怖をつくり上げてしまいました。なぜなら、自分が服従していたところの、何か自分よりも大きなものを感ぜずにはいられなかったからです。それが原因となって、水滴は絶えず不安の状態におちいってしまったのです。未知の大海のなかへ入り込んで自我としての正体を失うか、それとも元のままの状態にとどまって蒸発して未来を失うかは、わからなかったわけです。

 これが、「私の思いではなく、みこころままになさって下さい」の意味です。もし自分の意志が元のままにあるならば、それは始めを持ったのと同様に終わりをも持つことになります。海洋は目に見えるような始めも終わりも持たないのでそれと一体化した水滴はどれも海洋と同じ性質を持つことになり、今日も生き、更に永遠をも生きることになるのです。

 人間もこれと同様です。自己の意志が"宇宙の意識"と一体にならなければ、本人は始めを待ったと同様に終りをも持つことになリます。このことをよりよく理解するために、私の注意をひいた三つの実例を分析してみることにしましましょう。

例1)


或る婦人が15年間も寝たきりになっています。その間、彼女は地上の体験の記憶を次第に失ってきました。現在彼女は自分の妹をそれと見分けることができず、また苦痛をも感じていません。

 彼女の肉体は完全な状態にあるのですが、ただ体が次第に柔らかくなってゆき、溶けてしまうような徴候を示しているのです。肉体の物質が元のガスとカーボンの状態に返ってゆくように思われるのです。これが続くならばついには骨だけになりますが、遺物は残ることになります。この人はたしかに記憶においては15年間死につつあったのですが、始めは全く不快だったことでしょう。現在本人は肉体以外は全く死んだも同然です。

 これは絶滅のよい例です。なぜなら記憶こそ死後も存続する自我に関する唯一のものであるからです。この人は自分がかつての自分で同じ実体であるということを再び知ることはないでしょう。現在その肉体をコントロールしている力(複数)は宇宙的、普遍的なもので、本人の心はなくても現在やっているように、肉体が完全に死んだときも引き続いて作用します。これは更に別な肉体を造り出す"宇宙の魂"なのですが、しかるに同じ自我はなくても肉体は現在生きて表われています。なぜこんなことが起こるのでしょう?

 この人はかつてきわめて美しかった婦人で、随分お世辞や讃辞を呈された人でした。その結果彼女はその讃辞やお世贋を利用することによって元の自己というものを失ってしまい、完全に堕落して、自分の自我と個性という人工的な生命だけを生きるようになったのです。彼女の一部である宇宙の諸原理をかえりみる余裕はありませんでした。彼女がこの人問のお世辞を利用し始めたとき、事実上"宇宙"すなわち自己が生まれた目的と関係を絶ったのでした。そして彼女は"宇宙"と分離してこの世の生活だけをすごし始め、彼女の記憶はこの世だけのものから成り立ったのです。来世にまで持ち越されるのは記憶なのですから、彼女は宇宙と融合するものは何も持っていないわけです。

 これは記憶喪失症や自分のことがわからなくなってしまう夢遊病などとは違います。自我または個性はもう過去を知らず、こんなふぅにしてそれは生命のなかの自分の位置を失ってしまったのです。かりにその自我が別な人間となって自らを再生するとすれば、最初の肉体に役立ったのと同じ生命力が二度目の肉体にも役立つでしょう。しかし最初の記憶(肉体の魂)は完全に滅んでいます。二度目の肉体は最初の肉体の体験にいささかも気づくことはありません。これが絶滅です。

例2)


  或る男がいてその人の興味は地上的なものが80パーセント、宇宇宙的なものが20パーセントありました。現在彼は自分の記憶の80パーセントを失いつつあります。数日間彼は何事も思い出すことができず、誰をも識別できないことがありますが、ときどき自分の正体によく気づくようになったり、周囲の人たちを認めたりする。この人は二度目のチャンスを持とうとしているのです。といぅわけは、自身の生涯においてこの人は、自分を宇宙と融合させるための宇宙の法則に関する十分な思想を与えられたからです。ときとして自分の記憶に気づくのはこの生命力なのです。これが意味するところは、彼の記憶の或るものは来世に持ち越されて、それが宇宙内の一つの実体として存続するということです。この二度目のチャンスにおいてさえも、来世で生きるあいだに例の20パーセントに改善を加えなかったならは、本人はやはりこの実体を絶滅させることになるでしょう。

例3)


 私は或る男を個人的に知っていました。彼は人間なるものに非常な関心を持っていましたので、人間性ということについて起こった物事は何でも彼の心を痛めるのでした。彼は全創造物を宇宙の現われとみなしていたからです。幾日も彼は1人で座って空間を見つめていました。彼はたしかほ宇宙と融合していましたので、その見地からして彼を聖者と呼んでいいでしょう。しかし一つだけ間違ったことがありました。彼はそのために地上の生活と関係を切って宇宙にのみ生きるようになり、地上の諸活動の記憶すべてを失ってしまったのです。やはり宇宙と地上の目的はともに融合されるべきものです。前者が原因で後者は結果であるからです。

 完全というものが存在する唯一のときは、上の二つのあいだに完全な均衡が存在するときです。これは本人がバランスをとるために地上の生活に返らねばならぬことを意味します。宇宙には極端というものはないからです。彼は永遠の生命を持つでしょう。

なぜなら、彼は自身の地上の本体なくして既にそれを持っているからです。キリストが 「万物のなかの中庸」と言ったとき、それが地上であろうが天空であろうが、彼はバランスが法則であることを示しました。それで、我々の生活に宇宙を考慮に入れなければ、それは誤っており、また地上の生活をも考慮に入れなければやはり誤っているのです。人間が本人の実体を持ったままで永遠の生命を持とうとするのならば、上の両方が一体化されなければなりません。 人間は活動するその法則を見ることができます。というのは、目に見えない宇宙空間は地球の一部であり、地球は宇宙空間の一部であるからです。その二つのあいだにバランスがあるためにそれらは一体となって現われているのです。一方が他方なしに存続することはできません。人間も同様です。

(終わり)

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