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新アダムスキー全集

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 アダムスキーが帰ってきた?という奇妙な物語

日本GAPニューズレター 第33号 1966年 より


1966年2月22日、英国UFO研究会の会合におけるノーマン・オリヴァー氏とアイリーン・バクル嬢の講演から要約したものである。
J・L・オトリー

ジミー・ゴダードの「ソーサー・フォーラム」誌1966年4・5・6月号に、最近の最も驚くべきコンタクト・ストーリーと思われる記事が出ている。ただしわれわれはただここに全貌を紹介してこの問題を考えているにすぎない。

この物語は英国のスコリトン事件と関連がある。目撃は昨年7月7日午後10時30分頃に発生した。目撃者のブライアント氏がスコリトンの自宅でまさに寝ようとしたとき彼は船のタービンのような音を聞いた。外を見ると一個の薄青い光体が高度300ないし400ヤードで西から東へ飛んでいるのが見えた。この光体が下降するのが見えたが、そのうち光と音は消えた。

翌日彼がその地域を見まわすと奇妙な金属片が見つかった。曲がったブレイドの付いたタービンの金属のようなものもあるし、もっと複雑な機械のように見えるのもある。更に銀の砂の入った小さなガラスビンが1個あった(後日分析した結果、確実に銀粉であることがわかった)。また小ビン中には古代ギリシア語で「兄弟から兄弟へ」と記したメッセージもあった。また飛行体が着陸したと思われる個所には悪臭を発するジェリー状の小片があったが、これは急に溶けてなくなってしまった。

 さて昨年の終り頃UFO研究会の幹事としての資格でオリヴァー氏はできるだけ多くの興味を持つ人に質問表を送ったが、そのなかに次のような質問表があった。

「あなたは円盤の目撃またはコンタクトの体験がありますか?」

 このアンケートがブライアン氏にも送られたのだが、その回答に「ある」と書かれてあったのに気づいたオリヴァー氏は詳細を知らせよと頼んだところ、氏から折返し6ページにわたる手紙が来た。そしてそのなかに1965年4月24日に発生したという驚くべきコンタクトの物語が述べられてあり、大気圏外から来た人々と会い、彼らと語り合って、円盤の中へ入ったという体験が記してあったのである。

 その間題の日、ブライアント氏は自宅からスコリトン草原の方へ散歩に出かけた。目的地へ着いて村の方を振り返ったとき、大きな円盤が野原の上の明るい空中から出現して、地上約3フィートのところまで降りて、そこで停止するのが見えた。すると円盤のまんなかに出入口が見えてきて、ドアーが上方に開いてゆき、潜水用具のような物を着けた3人の人間が(ヘルメットを着用した完全装備である)出てきて、その一人がブライアント氏に向かって手招きした。

 氏が彼らの方へ近づいて行くと彼らはヘルメットを脱いだ。そのうちの2人はたしかにこの世界の者ではない。異常に長い額と青い眼をして(これはネコの眼のようであった)金髪で、ずんぐりした鼻をしていた)。彼らの口は青みがかっていたが、これは空気にたいする反応ではないかとオリヴァー氏は言う。着ている服は上下続きのもので、色は銀色で、人間たちが動くと服がスズ箔でできているかのような音をたてた。みなベルトをしめていたが、それには奇妙な"太陽"または花びらのような模様があった。へルメットには窓がついていた。また耳の部分には奇妙なコイルがあった。

 3人目の乗員は同じような服を着ていたけれども他の2人とは異なっていた。彼は黒い髪の14才くらいの少年で、着ている服は大きすぎるようだった。ブライアント氏の言葉によれば少年は「米語の音を含んだ中部ヨーロッパ人の話す英語のなまりがあった」という。

 この少年がブライアント氏に次のように話しかけたが、これが氏の物語の要点である。

「今から1ヶ月後に私たちはマンテルの証拠を示しましょう(注:マンテル大尉事件のことか?)(オリヴァー氏注:このときブライアント氏はマンテルやアダムスキーのことを全然知らなかった)。夕方の青い光体に注意しなさい。生殖の目的で人々をつれ去ってゆくエプシロン(注:この意味不明)の勢力は危険です。

  この勢力があなたがたのいうポルタガイスト(注:音の精。不恩講な音はこの精の仕業だといわれ、心霊現象の不可解な音の主だとも仮定される)を生じるのですが、これはあなたがたの生活の軌道にたいする無知のためです。私の名はヤムスキーです」

 どこから来たのかと聞かれて彼は金星からだと答えた。(オリヴァー氏注:このときのコンタクトはアダムスキーがワシシントン市で死去してから約12時間後であったことは注目に価する)

 このあとブライアント氏は助けられて船内へ入った。(このとき船体はまだ地面から約3フィート上に浮かんでいた)そして内部は数室の同じ型の部屋から成っていることがわかった。各部屋には隣室に通じるドアーがあり、床にもドアーがあった。各室には一個の寝台があり、それにはヒモが取り付けてあった。またテレビ受像機に似た大きなスクリーンがあって、その表面にはニジのようなさまざまの色光が上方に移動しているのが見えた。この船体はどのようにして推進するのかとブライアント氏が尋ねたら"イデオモーター運動"だという返事だった。(注:イデオモーターとは心理学用語で「観念運動性」という意味の形容詞)

 このあとすぐに氏は船外へつれ出された。すると円盤は約40フィート上昇し、続いて彼方へ消えた。

 このことを開いたオリヴァー氏とバクル嬢はただちにブライアント氏に会いに行った。最初の2時間はアダムスキーに関することは言わないようにした。ブ氏は51才で、3人の子供を持ち、その1人は17才である。氏の話によれば円盤の外観はプラチナみたいで、近くの野原にいた羊たちは円盤が滞空しているあいだは無関心のようだったが、円盤が離れたとき、羊たちはその飛行を目で追うかのように頭をその方へ向けた。だがブライアント氏には見えなかった。彼は円盤に触れたが別に悪影響は受けなかったし、乗員たちも触れてはいけないとは言わなかった。円盤内の各室は同じ状態だが、一室だけは異なっていて、寝台の上に紫色の覆いがかけてあり、それには一輪のバラの刺しゅうが施してあった。ブ氏が円盤内へ入ったときの感じを「まるで賭金を勝ち取ったかのような晴ればれとした気持だった」と述べている。円盤関係の図書を読んだことはないという。

 言葉による連想テストを行なってから慎重なやり方でオリヴァーー氏はアダムスキーに関するあらゆることを話して開かせた。するとブライアント氏が最初に答えたのは「あの少年はアダムスキーではないでしょう」であった。

▲1954年夏、パロマー・ガーデンズを訪れたデズモンド・レスリーとジョージ・アダムスキー。

 この後ブライアント氏とは数回の会見が行なわれて、或るときはデスモンド・レズリーも加わっていた。(注:レズリーはアダムスキーの"空飛ぶ円盤実見記" の共著者でア氏の親友)その際新たに次のような事実をブ氏は洩らした。

 円盤には着陸用パッドが付いていたが、接地しないで常に3フィートの高さで浮かんでいた。氏は乗員たちに助けられて中へ入ることができたが、彼らはこの高さを容易に飛び上がった。ヤムスキーが言った。「カルマは実際に作用します」そして今世における人間の働きは来世にその結果をもたらすというカルマの法則に言及した。また、ヨーヴィルの或る家の家族が生殖の目的のために(宇宙人によって)つれ去られたという。その家は今カラッポで、窓からのそき込むと左手のストーヴの上にフライパンが置いたきりになっているともいう。この家は後に或る人が発見したが、ストーヴの上にはフライパンはなくてスズのヤカンが置いてあり、網目カーテンはひどくよごれていて内部がほとんど見えず、ドアーには南京錠がかけてあったという。

 以上の講演をオリヴァー氏が終えてから次にバクル嬢がサイコメトリー(注:透視能力者が物品に手を触れてその由来を言いあてる術)の実験を行なった旨を話した。一能力老に或る目撃事件後に散乱していた金属片などを触れさせたところ興味ある結果が得られた。彼女はマンテル事件に似ていると思われる2、3の論点を持っていたのである。すると回答は次のとおりであった。

 「船または飛行機が忘れ去られる・・・・・悲劇・・・・・恐怖・・戦争ではない・・・・・戦争はあり得ない・・・・天候を除いてすべて静寂・・・・・イングランドで発見・・・まるで空飛ぶ円盤の中にいるようなブーンという音が閏こえる」(バクル嬢はその能力者に円盤のことは話していなかった)また能力者は次のように言った。

「この間題に興味を持っているのはあなただけではない。或る派の人々が興味を持っている」 右の話が終わってからドゥル博士がプライアント氏と行なったインタヴューの録音テープを聴かせた。これがすんで否定派の旗頭であるクリアリー・ベイカー氏と激しい質疑応答が行なわれた。

 ベイカー博士が否定派というのはちょっとした驚きだが、博士が反論しなくても多くの人が反駁したであろうことは想像に難くない。

 だがここでかつてアリス・K・ウェルズがアダムスキーの死去に関して次のように報じたことをお知らせする必要がある。

「アダムスキーの肉体は地球のものであるからそれは地球へ返さねばならないが、新しい肉体でもって仕事を続行する彼の英知に分断はない」

 ブライアンント氏はおそらくア氏の死を知ってはいなかったであろう。というのは彼のコンタクトはア氏の死後12時間ほどして発生したからだ。しかしブライアンント氏のコンタクトにはもっと驚くべき手がかりが秘められている。彼は「バラの刺しゅうのついた紫色の覆い物」について話しているからだ。

 1962年3月27日にアダムスキーは他の惑星から来た宇宙船に乗って米国の航空基地を出発し、9時間後に土星へ到着した。そこで彼は13名から成る会議に参加した。

「会議の席上で着るガウンが全員に与えられた。私に与えられたのは優美な青色で、右ソデにバラの花が刺しゅうしてあった」と述べている。

 ブライアント氏が紫色と優美な青色との区別がつかないというつもりは毛頭ない。問題は氏が1962年にア氏の土星旅行の報告を読んでいたとは到抵思えないという点にある。当時この情報は英国で3、4名の人にしか伝えられなかったのだ。

 以上をもってただちにブライアント氏の体験をけなすことは容易だが、彼の物語を真実として受け入れるにはジョージ・アダムスキーなる人物について深い理解を要する。当分の間はオリヴァー氏の講演の題をくり返すだけでよいだろう。「アダムスキーは帰ってきたか?」と。

(注:アダムスキーが帰ってくるというのは、生き返るという意味ではなく、別な惑星で生まれかわって新しい肉体を得た惑星人として宇宙船で飛来することをいう。これについてアリス・K・ウェルズは、アダムスキーが生まれかわるとすれば幼児としてでなく、転生のときから成人者の肉体を得るだろうと言っている)

(終わり)

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