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 悪魔との出会い

日本GAPニューズレター 第37号 昭和38年6月10日発行 より

 1967年、フランスで起きた奇怪な物語
ジョエル・ムスナール/グロード・パヴィ

 石垣と樹木のカーテンで仕切られた数々の牧草地を背景にしたカンタル高原の或る丘の上に小さな村がある。サンフルールの東南東20キロの地点にあるキュサク村だ。1967年8月29日の午前10時30分、D57路のそばの草原の中に10頭ばかりの乳牛がフランソワ・ドゥルプーシュ(13才)とその妹アンマリー(9才)の付添いのもとに草を食っており、メドールという犬もー緒にいた。天気はよく、空は晴れて、そよ風が西の方から吹いて来る。

 牛たちが低い石垣を越えようとして動いたので、引きもどそうとしてフランソワが起き上がって、あたりを見廻したとき、道路のむこう側に4人の子供らしい姿が見えた。それは40メートルばかり離れた垣のうしろにいる。どうもよくわからないのでもっとはっきり見ようと思ってフランソワは数個の石の上に上がった。すると、"小人たち"の近くに大きな球体があって、その半分は垣根にかくれているのが眼についた。あまり強烈に光るのでそれを見ると眼が痛くなるほどだ。

 小人たちの1人がかがみ込んで土をいじっているらしく、日光を反射している物(フランソワは鏡のようだったという)を片手に持つ他の1人が両手を振っており、見たところ仲間に合図をしているようだ。

 そこでフランソワは呼びかけた。「ポクと遊ぶために来たのかい?」この瞬間、2人の子供に関心がなかったように見えた小人たちは自分らが観察されていることに気付いた。最初の1人が垂直に飛び上がって球体の頂上へ頭から突っ込んだ。2人目も同じようにして続き、3番日も飛び上がって同様にした。4番目も飛び上がったが、球体にとび込む前に再度降りて地面から何かをひろい上げるように見えた(例の鏡だろうとフランソワは思っている)。それからその小人は再び飛び上がって球体に追いついたが、その間球体は小さな螺旋形を描きながら上昇を始めていて、空中に15メートルばかり浮かんでいた。小人はやがて他の者たちと同じように内部へ姿を消した。上昇中に球体は柔らかな突き刺すようなヒューという音をたてたが、それは子供たちが感じなかったそよ風の音とまじっていた。

 続いて球体は再度、数回旋回しながら上昇を続けたが、その間球体が放つ光の強度がかなり増大した。すると音がやんで北西の方向へ全速力で飛び去った。同時に硫黄のにおいが漂い始めて子供たちの鼻を打った。牛たちは鳴きだしてフランソワとアンマリーの牛たちの近くへ集まって来た。

 犬のメドールほ物体にむかってほえたてて、あとへついて行こうとした。子供たちは物体が消え去るまでは見なかった。驚きあわてた牛たちをなだめねばならなかったからだ。そしていつもより30分早く牛たちをつれて帰った。

 物体に関する詳細な点は乏しい。それは完全な球体で、径が約2メートル、きわめて強烈に輝く銀色の光を放ち、眼もくらむばかりだった。眼鏡をかけているフランソワの眼は弱いにちがいなく、物体を見た後に15分間、眼から涙が出たが、その後数日間毎朝起床時にも涙が出た。眼鏡をかけていない妹は何事もなかった。

 球体そのものには何の付属物も認められなかった。完全になめらかで、シルシや穴もない。どうやら小人たちは球体の壁を突き抜けたらしい。たった一つ眼についた物がある。これは目撃した子供たちの話のくい違いの一つだが、アンマリーによると、球体の下部に3、4本のまっすぐな脚からなる着陸装置があり、各脚の先には径10センチの丸い"クツ"がはかせてあったという。子供たちには飛行中の機体の下部にはもはや何も見えなかった。アンマリーは脚が球体中に引っ込むところを見ていない。脚は1分間ばかり見えたが、次の瞬間にはもうなかった。これは次のように考えてよいかもしれない。球体が上昇して正視できないほどに光の輝度が増大したので、物体の付属物がこのまばゆい光によって消されてしまい、そのために離陸の瞬間に弱い眼のフランソワには眼が見えなかったのだと。

 球体が螺旋形で上昇し始めるにつれて硫黄のにおいがひろがった。軽い西風が物体から子供たちの方へ吹いてくる。物体が離れるとすぐに牛たちが鳴きだした。よく考えると、オゾンが硫黄と(正確には硫黄ガス)よく似たにおいを有すること、更にオゾンのにおいが多くのUFO着陸事件で報告されている事実に気付かれるだろう。

 小人たちに関する細部の鋭明は豊富で興味淡い。彼らは1メートルないし1.2メートルの身長で、みんなが同じ高さではない。第1号と第2号(図を参照)は最も小さく、一番高いのは第4号の"鏡"を持っている小人である。彼らは"まっ黒"だったが、輝くような外観を呈しており、それをフランソアは絹の輝きにたとえている。その黒い色が小人の皮膚の色なのか、何かの保護服の色なのかは子供たちにはよくわからない。衣服(だとすれば)と、むき出しの顔とを区別する線が見えなかったからだ。もし何らかの保護服だとすれば完全にからだにぴったりしたものである。

 手足の均衡はわれわれの標準に全く合致しないものであった。腕はやや長くて細い。子供たちは小人の手首らしきものを認め得なかったし、足は短くて細かった。手は見えなかったが、第4号の足を観察できて、それを"水かきのついた足"と言っている。これはおそらく何かの足覆いのためなのだろう。頭部は胴体に適切な正常な釣合を保っているように見えたが、頭部はとがっていて、アゴもきわめて長かった。鼻もとがっていて、ここに子供たちの第二のくい違いがある。アンマリーだけが小人第4号が球体に飛び込もうとして地を離れて横顔を見せたときに、この鼻を見た。これは瞬間的な目撃であったためにフランソワには見えなかったと考えてよいだろう。最後のきわめて興味ある点は小人たちがはやしていたヒゲである。それは頭の両側にはえており、アゴの下にも少しあった。眼や鼻を見分けることはできなかった。

 小人たちは背中に何の装置もつけていなかったが、全く楽々と急速に飛び上がった。これはジャン・グービル氏が反発力場について書いた記事中に述べられたものに似た装置の小型か、それともその飛び上がり現象は一定の信号にもとづいた例の光る物によってできるのか、あるいは球体内部の第5人目の乗員の動作によると考えられる。

 われわれはだれにも事前の予告をせずに調査に行った。そのため2人の子供は待っていたわけではないので、話のリハーサルをやっていたとは考えられない。われわれはまず警察署へ行き、そこでていねいに迎えられてこちらでつかんでいた基本的事実の確証を与えられた。この事件については、ラジオ・リュクサンブールが、事件の翌日に行なわれた同放送の記者と子供たちの父親との対談の記録を親切に送ってくれて知ったものであり、また1967年9月2日及び3日付のパリ・ジュール紙に掲載された記事でわかったのである。目撃事件の基本的輪郭の確証において警察が断言するところによると、事件の日の午後4時に現場へ来た調査官たちは硫黄のにおいがすることをたしかめたという。しかも警察や調査官は最初からこの事件を重視していた。

▲現場におけるクロード・パヴィ氏と子供。

 続いてわれわれはキュサクへ行き、そこで小さなアンマリーとその母親、マリーの弟のアンドレたちを見つけて、歓迎を受けた。こちらは2人だけで、交互にのべつまくなしに質問を発して、ときどき簡単な言葉で同じ質問にもどったりしたが、これは相手の話に矛盾を発見しようとしたためである。アンマリーは内気な少女だが、その話には全然矛盾はなかった。この質問戦のあと彼女は、他の兄のレイモンドと一緒に畑で働いていたフランソワを探しにわれわれを案内してくれた。そしてフランソワを家へつれて帰って、アンマリーの場合と同様の質問戦を展開したが、その話にも全然矛盾はなかった。今度は家と事件の現場の両方で2人を相手に尋問し、もっと特殊な質問を発したが、2人のあいだに共謀的な様子は全く見られなかった。子供たちはこちらの質問に当惑したようなふうでもない。 つまり尋問された詳細な状況を実際に見たか見なかったかということである。たとえばフランソワは次のように言った。「最初の日からアンマリーは球体の下に脚があるのを見たと言っているけど、ポクは何も見なかったんだ。だから何も言えないよ!」ところで、この点についてはフランソワは妹が垣根の木の枝を"脚"と感違いしたと思っているのだ。

 両親から聞いてわかったことだが、アンマリーは事件のあと二晩は眠れなかったので、両親がこの子を中にして寝てやる必要があったという。フランソワも最初の日は眠れなかった。納屋の中で干草を坂り除いていたキュサクの住人ドゥルシェ氏は球体が上昇したときにヒューツという音を聴いていた。両親の話によると、子供たちが牛をつれて帰ったとき泣いていたという(子供たちがこのことを話さなかったのはおそらく恥ずかしかったからだろう)

 以上の両親の話はすべて子供たちのことを思って申し合わせたものだろう。ところが一方、子供たちがこの複雑な物語を創作したものとすれは、一般UFO現象の内容や多数の人が目撃したものと見事に一致しているので(ただしわれわれが知る限りUFO事件にしては初耳の硫黄のにおいは別である)、この事件を多少とも典型的な目撃事件の分野に入れてよいし、またフランソワとアンマリーがUFO問題の専門刊行物を読んだとみてもよいだろう。たしかに次第に多くの人がUFOに関心を持つけれども、UFO専門の刊行物の普及はまだきわめて微々たるものなので、フランスの最も人口の希薄な地域の一つであるカンタル県の農夫の子供がこうした刊行物を読んで目撃談の詳細な知識を仕込んだとは到抵考えられないことである。

 両親の話によればフランソワは4年生でよく働く子だという。学校で何を習っているかと聞かれてフランス名詩撰、ジョルジュ・サンド、シャトーブリアン等をあげたが、これはおそらくカリキュラムの一部なのだろう。一方、この子はあのような物語をでっちあげるほどの想像力を持っているとほ思えなかった。事件当時に感じた恐怖は別として、目撃物の重要性や意義を認識しているとは思えない。ところで、ドゥルシェ氏が聴いたヒューツという音と警察が確証した持続性の硫黄のにおいの説明が残っている。

 以上の事柄のすべては、尋問によって得た感じ、すなわち熱烈に信じられているきわめて重大な事件にわれわれが出くわしたという感じを強めるばかりであった。しかもその事件の重大さと意義は如何に強調してもしすぎることはない。これほど多くの状況証拠を含み、またこれほど多くの難問を(その殆どはすでによく知られている難問だが)提示した明瞭な事件についてわれわれは殆ど聞いたことがない。しかもこの事件に関しては、哀れ、われわれは推測の域を一歩も出ないのだ。ここでも、相手が子供といえども故意にコンタクトを避けたこと、球体の推進力の神秘、人間らしき形をした者−しかもそれらの少々不穏な出現等が見られるのである。この小人たちの出発地点と目的に関する疑問は未解決のままである。

(終わり)


チャールズ・ポクエン氏注:

 この記事に関するルネ・フーエーレ(注:フランスの研究家)の解釈は次の二点を想起させる。

小人たちの乗船のいささか風変りなやり方について、この球体はたぷん固体でイオン化された輝くガスの外被で包まれていたために、その強烈な輝きによって入口が見えなかったのかもしれないこと。これは1959年6月21日にパプアのジル神父と生徒たちがポイアナイで、輝く外被体が消滅したときに中の本体を見たこと。第二に、1965年ヴァレンソルで目撃された物体の乗員たちは何の装置もなしにビンの中の泡のように空中を上下していたことなどである。

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