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 テレポテーションはまだ発生している

ニューズレター No.44 昭和45年12月15日発行 より 

テレポテーションとは原因不明の瞬間的遠隔移動現象である。このナゾの正体は何か?
ゴードン・クレイトン

 5年前に発表した記事で私はテレポテーションと思われる事件の3種類の実例を要約して述べた。つまり1593年にマニラからメキシコ市へ瞬間的に飛ばされたスペイン人兵士の例、1959年にアルゼンチンのバイアブランカの実業家が北西1000キロ彼方のサルタへ即座に移動させられた例、それに1963年1月に日本の銀行員たちが乗った車が消失した事件等である。

 上の記事を出して以来数年間に私はこうしたいわゆるテレポテーションの驚くべき数例を聞いている。しかもアルゼンチンの同志オスカー・A・ガリンデス氏はヘラルド・ビダル博士夫妻の有名な事件の記事を1968年に出した。 それによると夫妻はアルゼンチン、ブエノスアイレスの南方チャスコムスのハイウェーから車に乗ったまま突如メキシコの或る道路上に移動したというのである。(注:以上の各例はかつて本誌で紹介した。)

 上記の各例におけるきわめて重要な要素と思われるのは、"車を包んだ不思議な白い霧または雲、またはモヤ″という言葉である。その後の調査によって我々は更にチャスコムス事件と同じ夜に同じ道路上でトラック運転手が前方に出た不思議な"霧″のかたまりに遭遇して、そのために体に種々の症状が現われて、病院へ直行せねばならなくなったことが判明した。

 読者のなかには1915年8月に起こった有名なガリポリ事件を思い出す人もあるだろう。その時は英国の兵士の大きな体が低く垂れこめている数列の霧または雲状の物の中に押し込まれて、トルコの敵軍にも味方の者にも2度と見られなかったという。

 あとで述べる新しい事件のなかにもこの白い霧またはモヤという特殊な言葉が出てくる例が2つある。

 過去2年間に(1968〜9年)、南米からもこの種の不思議な報告を数例受け取って 「一般にそのような報告はアイマイで、噂にすぎない」と読者は言うかもしれない。しかしUFO物語全体があらゆる面できわめて怪奇になってきたので、数年前には全くあり得ないことと思われた事件にも、今は少なくとも慎重な考慮が払われてよいだろう。

 暗示や噂などは断じて事実そのものではない。もし事実を含んでいれば、テレポテーション問題についてとやかく言う前に我々はもっと詳細を入手したいものだ。

 だが我々は南米諸共和国の状態は、元の状態とは著しく異なってきたことを知っている。南米の民間UFO研究家たちは"国家防衛"という強固な壁に益々直面している。そして極端に慎重に事をすすめる必要を感じている。ゆえに南米にいる多数の同志通信者のいずれも、われわれが今入手している資料にもっと多くの光をあてることができること、テレポテーションに関する別な論文を遠からず出すことは、現状ではかなり困難である。


-チャスコムス事件以後に入った報告-

1.チャスコムス事件の続き

 我々はビダル夫人が1969年の始めに白血病で死んだことを聞いた。この情報はその家族の1人からヨーロッパ出身の研究者に伝えられたものである。


2.テレポートされたハネムーンの2人

 別な情報源から次の事がわかった。l968年にブラジルの新婚カップルがハネムーンに出かけて、南部ブラジルのリオグランデドスル州を通って車でドライブする途中、休憩するために停車した。2人がフォルクスワーゲンの中にすわっていた時、突然2人は強い居眠りに襲われた。2人が意識を回復した時、メキシコにいたという。ビダル夫妻と同様である。


3.リオグランデドスルの例

 この実例は1968年に同じ地域をジープで旅していた2人の若い男に関するものである。その時はポルトアレグレ付近の或る場所で2人は白い霧のカタマリに遭遇した。次にわかったことは2人とも見知らぬ風景の中にいたことで、これもメキシコであったことが判明した。 私は上の例2.と例3.は同一ではないと思う。1969年1月15日にリオデジャネイロの新聞ディアリオ・デ・ノティシアスが次のような興味ある報告をのせた。それによると2つの例あげて、1つの名前をあげている。

「噂によるとプレジデント・ドゥトラ高速道を車で走っていた2人の人が、そこからメキシコの国境に近い米国内の或る町へトランスポートされた。その車体にはトランスポートした謎の物体のフックによってできた跡がついていた。

 別なブラジル人のカブル(アザンブジャという)も似たような事情のもとに車でメキシコへトランスポートされたといわれている。


4.グラシエラの例

以下は11才になる少女グラシエラ・デル・ロウルデス・ヒメネスの物語である。l968年8月5日付の新聞コルドバ紙に掲載された長い記事によると、この少女は前日すなわち1968年8月4日にアルゼンチンの自分の町であるコルドバで恐ろしい体験をしたという。次のとおりだ。

 11才の少女が"白い雲に包まれたまま"自分の町から姿を消した!?

 グラシエラ・デル・ロウルデスは11才である。この少女をよく知っている人、殆ど毎日この少女を見ている人たちは、少女が生来内気で、その平常の話しぶりはほぼ真実を語り、どのような話題でも話をすることができることを証言している。彼女はコルドバ郊外の学校の5年生であり、優秀な成績をあげて高く評価されている。中流の環境ながら近隣では最高に評判のよい両親の娘であるこの子は、今や医師の診断を必要とするのである。全身に奇妙な悪寒がし、体か震え、泣き続け、何とも言えない感じがすると言うのだ。

 彼女は昨日からこんな状態になった。昨日こそまさにおぞましい体験を経る運命におちいったのである。それは途方もない驚くべき体験で、本人には未知ながらも最近一般人の注意と好奇心をひいた他の実例と酷似しているのだ。このグラシエラの事件はわれわれに殆ど疑惑を起こさせない。そしてそれはむしろサイエンス・フィクションの分野に属すると思われるような奇怪な出来事の膨大な目録の中でその地位を占めるものである。

 「私を助けて連れて帰ってください!」

 昨夜午後6時30分頃に、グラシエラ・デル・ロウルデス・ヒメネスはドミンゴ・フネス通りの第20番家屋のドアーをノックした。ドアーを開いた若い女性に対して声を震わせ泣きじゃくりながらグラシエラは言った。

 「お願い、お願い・・・・夜なので道に迷いました。どうぞ私を助けて家へつれて帰ってください・・・。」

 もう続けることはできなかった。声がノドで消えてしまうのだ。家の若い女性はその時家にいた許婚者と一緒に少し話しかけて、その若者が第10警察管区の警察へグラシエラを連れて行くことにきめた。女の子をそこへ連れて行ったラウル・ロマンというその若者は、女の子が話した話を聞いたのである。

絶望した両親

 一方、午後3時30分頃から、ロスナランホスのコルドバ側郊外にある第4号路、第364号にあるラモン・アントニオ・ヒメネス氏の家では、多数の近所の人たちがグラシエラの悲嘆にくれた母親を慰めながら、不可解な失踪をとげた子供の捜索に協力していた。自宅から決して1人で外出しなかったグラシエラ、自宅から数ブロックしか離れていない学校へ通うにも常に母親が付き添っていたグラシエラ、気が小さくて従順で、決してウソが言えないこのグラシエラを一同は探しまわったのである。

 フィアットの工場の従業員であるラモン・アントニオ・ヒメネスが、フットボール試合を見てから帰宅したが、その困惑、驚き、絶望は妻のそれに劣らなかった。妻はすでに娘を求めて付近の家をかたっぱしから探しまわったのであった。すると、午後6時45分頃にヒメネス氏は第11警察管区本部へ行った。その管区内に彼の家があるのである。そして警察の援助を願ったのである。それから2、3分してグラシエラが第10管区の警察にいることがわかったので、父親はただちにそこへ行った。

白い雲だけ・・・・

以下は少女が語った話である。

「お母さんが厚いストッキングをはけと言ったの・・・あたし、それをはいて正面のドアーの所へ行き、道路をあちこち見たけど、誰もいなかったわ。それで家の中へ入ってテレビを見たくなったので、引き返そうとしたら、モヤのような白い雲が前の道路上に現われたのよ。それが次第にあたしの方へ近寄って来て、ほかの家が見えなくなり、動くことも、お母さんを呼ぶこともできなくなったわ・・・・」

 子供はまた泣き出した。数時間ひどく泣いたので眼は赤くなっている。きゃしゃな小さな全身が震えている。しかもひどく寒い感じがすると言う。また話し続けた。

「そのあと・・・、何もわからないわ・・・・、やがて気づいたら人がいる広場にいたの。小さな男の子も沢山いたわ」

 この娘の言っている広場というのはプラサ・エスパニャ(スペイン広場)であることを警察は後に突きとめて、そこで調査を行なったが、この子が突然そこに現われるのを見た者はいないし、そこにその子がいるのを認めたことを記憶している者もいなかった。質問に答えてグラシエラは言う。彼女はただあてもなくそこを歩き出したが、ついに夜がきて暗くなったので恐ろしくなって泣き出した。ドミンゴ・フネス通りの家のドアーをノックしたのはその時である。

奇妙な寒気を感じる

娘は父親の要求により、昨日ただちに警察医により診察された。その報告によれば、体に暴行の形跡はないというが、ヒメネス氏に対して別な医師や精神病医たちに再検査してもらうようにすすめた。

 今朝グラシエラは父親と一緒にフィアット工場の診療所へ行った。というのはプラサ・エスパニャに来たことに気づいた昨日の午後以来、彼女はひどい寒気を感じて、そのために体が震えるからである。今朝彼女を診察したフィアット工場の医師たちの意見を我々はまだ聞いていない。とにかく少女の体験は珍奇かつ不可思議な事で、信じがたい話であるが、とにかく好奇心ある人や博識の士、怪奇物の研究者たちの注意を引いた最近の多くの不思議な出来事の中に入れる価値はある。


5.マルシロ・フェルラスとその妻の事件

ブラジルの大きな砂糖商会アスカル・ウニアウン(シュガー・ユニオン)のマレシロ・フェルラス氏とその妻は1968年または69年の或る日、ブラジルはサンパウロ市から南方へドライブしていたという。ブラジルとウルグアイの国境地帯付近へ来た時、2人は路上で例の"白雲"に遭遇したのである。ところがその内、"またもメキシコで気がついた"のであった。

 夫妻はひどい外傷を受けて夫は重態となり始めたので、数週間後に医師の診察を受けたところ、脳に瞳瘍が発見された。その後まもなくカーニバルのシーズン中にフェルラスは自分を撃った。ブラジル空軍の機密保持関係の大佐は、フェルラスが前記のテレポテーション事件類(2,3,5)について知っていたこと、それらが事実であったこと、しかしそれらはトップ・シークレットとして分類されており、国家の機密保持の分野に入るので、洩らしたり新聞に流したりしてはいけないことなどを認めたといわれる。


6.薬局へ行く途中に馬上からさらわれる

リオデジャネーロの新聞ディアリロ・デ・ノティシアス(1969年5月24日付)に掲載された記事及び、内陸の新聞フォリヤ・デ・ゴイアス(1969年6月12日付)の記事、それにワイナー・ジョセ・モンテーロ氏からビューラー博士(注:ブラジルGAPリーダー)に宛てた1969年4月28日付の手紙等によれば、1969年4月20日の夜に、ゴイアス州で発生したあらゆる事件のなかで最も怪奇な事件が発生したという。

 話によるとゴイアニャから57キロばかりの所にあるファゼンダ・セルラディニョのドロール・ロケなる御仁が、薬局で薬を買うために、その夜、馬に乗って町へやって来た。イタウス付近の或る場所へ来た時、彼はいくつかの光(複数)を見たが、そのあとは何もわからなくなり、夜明けに目が覚めたけれども馬には乗っておらず、イトゥンビアラとして知られる地点のパラナイバ河の岸の岩の上にいた。イトゥンビアラはイタウスから400キロも離れているのである。すっかり混乱して方角のわからない彼は、最初に会った人に呼びかけた。「後生だから・・・・ここはどこかね?」

 荷馬車で通りかかった人が近くのバス停まで連れて行って、そこから彼はバスでイタウスへ帰ることができた。

 帰宅すると家族は仰天した。すでに帰っていたのは馬だけであったからだ。イタウスの他の人々もあの夜、空中に不思議な光(複数)を見たことや、このことは土地で大変な評判になっていることがわかった。


7.空飛ぶステーションワゴン

 リオデジャネーロの新聞ウ・ジョルナル紙1969年7月24日付に出た記事によれば、リオグランデドスル州の4名のビジネスマンが、その月の上旬の或る夜、不思議な、身の毛のよだつような経験をしたという。

 その4名、ジョセ・ゴンザレス、オニリョ・ジョセ・ダ・シルバ、ジョセシディマール・パルポサ、モイセス・コートは、ノバフリプルゴの町(サンタカタリナ州)を"コンビ″ステーションワゴンで出発した。一行がパウロロペスの町(同州)付近の或る曲り道を廻った時、低空で飛ぶ1機の円盤にでくわした。円盤が車の方へ一条の光線を放ったので、そのためすぐに全電気系統「エンジン、ライト類が停止してしまった。すると車は同乗者たちを乗せたままものすごく強力な磁石らしきもので空中へ引っ張り上げられて非常な高空へ上昇し、驚くべき、恐るべき空中旅行をやったのである!  

 そのあと再び降ろされたが、そこは同じ道路のはるか前方であった。円盤から下へ降ろされたあとはその円盤をもっとよく見ることができた。それは2つの洗面器をフチの所で重ね合わせたように見えて、なおも変化する強烈な光を放っていた。一同はその円盤が別な車をとめるのを見たが、それはピグアス町発行のナンバープレートをつけた、荷物を積んだトラックであった。

 4人のビジネスマンは奇怪な冒険に打ち震えて、フロリア ノポリスのホテル・マジェスティックに投宿したが、そこで彼らは医者を呼んで身体検査をしてもらい、官憲宛のリポートを書いたのである。

(終わり)

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