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 第3章 神々の戦車 第3話 宇宙よりの訪問者/ロイステマン
 

デニケンの著書がベストセラーとしてブームになるにつれて、その諸説は 新しい発見物に適合するように変わっていった。

▲ボリビアの古代都市,ティアワナコの遺跡「太陽の門」。
▲ボリビアの古代都市、ティアワナコの遺跡「太陽の門」。一枚岩で彫られたというこの門は10トンの重量がある。空飛ぶ神の像の両わきには、48個の人像が3列に彫ってある。 伝説によれば、この都市は1人の女が建設したが、彼女は“地球の偉大な母”になるために、星々の世界からやって来たらしい。 彼女は地上で70人の子どもを産み、それから故郷の星へ帰って行った。 デニケンにとってこの伝説は、"太陽の門"のような大計画は大気圏外人の援助によって遂行されたという自説を裏づけるものである。

彼は現代のミステリーのすべてを、大気圏外からの来訪説と結びつけようとした。彼はみずから世界じゅうを飛び回って、考古学的、歴史的な驚異の事物を調査した。 『神々の黄金』が出たときには、彼のジグソーは事矢上完成した。そして人類の先史時代に次のようなことがあったと彼は信じている。

「遠い過去に我々の銀河系内では、人間に似た知的生物間で戦争が発生して、敗者たちは宇宙船で逃亡した。 彼らは敵を欺くために、理想的な惑星とは言いがたい地球に着陸したが、そこでは空気に慣れるまでヘルメットや呼吸装置を着用する必要があった。次に彼らは、当時第5惑星として知られた別な惑星に科学技術ステーションと送信機を設置し、暗号化した報告を発信した。 こうして彼らのトリックは成功した。

鋭河系の戦争の勝利者たちは、だまされて敗者が第5惑星に基地を建設したと信じこみ、大爆発させてそれを破壊した。 これが現在の第4惑星(火星)と第5惑星(木星)間に無数の岩石を含む小惑星帯が存在する理由である。

一方、宇宙から来た人々は、地球の地中深く穴を掘りトンネルを作った。 これは敵の追跡から逃れるばかりでな、、ふつうの大気による被害を避けるためである。 敵を絶滅させたと思いこんだ勝利者はホーム惑星へ帰還した。 しかし、惑星の破壊によって起こった太陽系内のアンバランスのため、地球の自転軸が数度移動して、大洪水が発生した。 これが世界じゅうの民族が持つ伝説の一部である。

訪問者たちが、壮大に作られた地下の世界からついに出て来たとき、彼らは分子生物学の知識を応用して、地上に知的生物を造り始めた。 当時存在していた、最も進歩したサルを取り上げて、自分たちの姿に似せて人間を創造した。 この新しい種族が純粋なまま残るように彼らは厳重な規則を設けた。 そして期待にそわない者をまっ殺した。 彼らは地球の生物から神と見なされた。 こうして新しい種族の世代が続いた後、硯在のような人間が地球上に出現した。」

▲イングランドの田舎にあるストーンヘンジの不可解な一枚岩。
▲イングランドの田舎にあるストーンヘンジの不可解な一枚岩。

以上が、デニケンの風変りな憶測である。革命的な理論家や空想家が人知の起原のごとき根本的に重要な問題について思う存分に推測する権利を、だれも否定はしないだろう。 しかし学者は、裏づけとなる証拠が極端な説こも適合するように曲げられることを常に警戒Lている。 それで彼らは、デニケンのこのような振舞いを非難してきた。彼は、証拠を発見するために、ほとんどあらゆる文化を略奪し、自分の主張にあわないような事実は一切無視したといわれている。ある学者グループがデニケンの最初の著書『神々の戦車 』を調べた後、その面白い注釈をE.W.キャスルとB.B.シアリングか編集して『戦車に対する信頼!』という題で出版した。その本の中で彼らはデニケン説の基盤になっている多数のでたらめを指摘した。 そして歴史学、考古学、建築工学、宗教学などの分野における最新の諸発見を基にして、デニケンが宇宙からの訪問者に結びつけた地上の遺跡の多くを、もっと現実的に解釈したのである。

▲正統的な考古学による階段式ピラミッド建設の想像図。
▲正統的な考古学による階段式ピラミッド建設の想像図。 ロープは存在しなかったとか,ローラーに用いた木材はエジプトにはなかったとデニケンは考えているが、実際にはロープが存在した例がある。 また輸入木材を運搬した記録も学者に知られている。 さらにデニケンは石ブロックの重さを12トンと見ているが、ほとんどが実際は約2.5トンであった。

その序文で、編者はデニケンに対する主張を打ち出して次のように述べている―「彼の言う“諸事実”の中には、誤ったものがありこれらの“事実”’から行った彼の解釈は全く認められない。」 

どうやらデニケンは、多〈の分野で攻撃を受ける可能性があるらしい。 アステカ文明の専門家であるゴードン・ホイッテーカーは、博物館のカタログをざっと見たたけで避けられるような誤りを指摘している。デニケンは「メキシコのオルメク人か刻んだ巨大な頭部像は、重すぎて彼らの居住地からは動かせない。 なぜなら橋を作っても、その重量には耐えられないからだ」と断言している。 しかしホイッテーカーは言う「数種の博物館がコレクションの中にこのような頭部像を所有しているばかりでなく、その一つを最近ニューヨーク のメトロポリタン美術館の展示会に出品するため、数千キロメートルも輸送された」と。またホイッテーカーは異なる見地から、次のようにも論証している。「イースター島の巨像群を、そこの住民が独力で刻んで建てたはずはないというデニケンの説は根拠が誤っている。このような彫像は、ポリネシア諸島だけにあるのではない。また、それらをロープや石のローラーで動かす方法については土民の伝承もある」というのだ。

デニケンの説を粉砕しようとするこの興味深い書物にもう一人寄稿者がいる。それは、オーストラリア、シドニー大学のバジル・ヘネシー教授である。彼はデニケンの「裏づけのない、未消化の、支離滅裂な、時には不正確な主張の寄せ集め」に言及し、デニケンが自説でいかに大きな誤りを犯しているかを説明している。

▲トルコ毎軍の提督が所有していたという“ピリ・レイの地図”。
▲トルコ毎軍の提督が所有していたという“ピリ・レイの地図”。これは1935年にトプカピ・セラグリオで発見された。デニケンによれば、この地図は南極の山脈をも示しており、今は深い雪で覆われているので、それを探るには反響装置が必要である。 また彼はこの地図が空中から見たもので、それには航空機に乗った宇宙人の助けを要したと言っている。

たとえばギザの大ピラミッドは、デニケンによれば3120万トンの重量があるというが、ヘネシー教授は平均2.5トンの推定230万個のブロックを積み重ねて計575万トンになると指摘している。しかもあの石ブロックは、デニケンが言うような硬い花コウ岩よりもむしろ柔らかい石灰石でできており、これらの右はピラミッドのすぐ近くで切り出されたのであって、数キロメートルも離れた場所から切り出したのではない。 各ブロックは、ロープにより適当な位置へ動かされたがデニケンは当時ロープはなかったと信じている。 しかし、それは多くの博物館で多量に見られるものである。 ブロック移動用ローラーを作るための木材はなかったとデニケンは言うが、ヘネシー教授は古代エジプト人は外国から大量の木材を輸入したのだと述べている。

シドニー大学セム族研究科のA. D.クラウン博士は、16世紀初頭にピリ提督が描いたといわれる“ビリ・レイの地図”に関するデニケンの説に挑戦している。アメリカの地図製作者たちの言を引用して、デニケンはこの地図を碁盤目上で作図して現代の地球儀に移し換えると、完全に正確になると述べている。それは、地中海、死海、南北アメリカの沿岸そして南極の輪郭までも示している。

▲カイロを基点にした方位図法。   ▲クラウン博士の見方による“ピリ・レイの地図”がカバーする地域。
▲カイロを基点にした方位図法。 デニケンはこれを“ピリ・レイの地図”に応用された方法だと指摘した。 方位角は球体の湾曲した表面を一定の中心を基点として平面に投影するので常にゆがみが出る。しかしシドニー大学のA.D.クラウン博士によれば“ピリ・レイの地図”に見られる南米の奇妙な長さを説明しようとしてデニケンが引用したゆがみはカイロを基点とした方位図法では現れないはずだという。 ▲クラウン博士の見方による“ピリ・レイの地図”がカバーする地域。正確に描かれた南米の沿岸部はこの地図が作られた1513年に、すでに地図製作者に知られていた。氷に覆われていたかどうかは別として、南極はクラウン博士の作図には現れてこない。

“ピリ・レイの地図”は、沿岸ばかりか内陸部の詳細も含んでおり、南極の山脈まで描いてあるが、これは1952年に反響装置で発見するまでは不明だったといわれている。 そこでデニケンは、地図の基として航空写真が使用されたに違いないというのである。彼の示唆によれば、この写真は数世紀前にカイロの上空高く停止した航空機または宇宙船から撮影されたのだという。 何校かのコピーが作られて伝えられ、さらにこれらのコピーのコピーが作られた。 デニケンによれば“ピリ・レイの地図”は何個となく複製されたものだが、元は航空写真に基づいているというのである。

この地図が印象的なものであることには、クラウン博士も同意しているが結論として、その起源はミステリーではないという。またその存在を説明するのに空中写真を考える必要もないという。地図は正確だとデニケンは信じているけれどもそんなものではない。 地図に描いてあることは、16世紀初頭の経験ある船員たちに知られていたのだと博士は言っている。

▲大英博物館にあるイースター島の石像。
▲大英博物館にあるイースター島の石像。島のわずかな人口からして、こんな奇妙な像を数百も彫って建立することは不可能だったろうとデニケンは指摘する。しかしある歴史家は、これらはポリネシアの島々に見られる典型的な宗教的彫康だと反論している。また、彫刻と建立の仕事は一夜で行われたのではなく、長期間、今も同島に見られる道具を用いて作られたのだと言っている。人頬学者のトール・ヘイエルダールがこの問題を調査したとき島民は、巨石群像を並べる方法を正確に説明することができたという。
▲ティアワナコの一枚岩から成る”大偶像”。
▲ティアワナコの一枚岩から成る”大偶像”。表面を飾る記号類は天文学に関する詳細な知識を記録したものと解読されている。その時代と文明から隔絶した場所とを考え合わせて驚くべきことである。

デニケンの著書『古代の神々の探求』に対する書評で、ジャケッタ・ホークス は 1974年9月15日付『イングリッシュ・サンデータイムズ』紙において同書冒頭に出てくる銀河系の位置の誤りを指摘している。 2番目の誤りはティアワナコの年代を紀元前600年としたことで、これは紀元後600年でなければならない。

「これらは、ほとんど全ページに散見される多数の単純な誤りの例にすぎない」と彼女は書いている。 また、同書に掲載されている40点以上の写真やイラストは周知の偽物だとも指摘している。

もちろん専門家が常に正しいとは限らない。 しかもデニケンの諸説を支持する専門家もいるのだ。 しかし、彼のかなり無謀な調査法と表現を弁護する人はほとんどいないだろう。 そして仮に、彼の憶測が正しいとしても、もっと多くの証拠を必要とするだろう。

それにしても、地球が進歩した人類の訪問を受けてきた可能性があることは認められねばならない。 地球よりもはるか早くから生命体の発達した、人間の住む惑星は多数存在するかもしれないのだ。 数千年前に我々のと同じ程度にそれらの科学技術が出現していたとしても、彼らは広大な宇宙空間を航行する問題を解決しているのかもしれない。

そうだとすれば、彼らは地球人が自分たちの無人の衛星上でやったように、彼らの訪問の証拠を残すと考えられる。 実際には、宇宙よりの来訪者は我々を決して見捨てないで、しかも寄りつかないようにして天空から我々の進歩を見守ってきたのかもしれない。 我々は銀河系内の単なる繁殖実験の産物にすぎないとは言えないだろうか?

宇宙よ りの来訪者と人類の起源に関して、物的証拠が何であろうと、とにかく最古の記録以来、不思議な物体が記録されてきた。 それは史実が示している。 これらの物体ー現代のUFOと似ているもの−に対する筋道の立った説明が出て来るまでは、我々はエーリヒ・フォン・デニケンのセンセーショナルな諸説について、心を広く開いておくべきであろう。

(第3章 神々の戦車 終わり)

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