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 イエスの実像と転生の法則

第2話  UFO Contactee No.118 1992より

遺跡とは別にイエスの実在を証明する重要な物件として、聖骸布なるものがある。これはイエスの遺体を包んだ布とされる名高い物で、現在はイタリア・トリノのサヴォイ家チャペルに保存してある。新約によると、マタイの27・57から61にかけて、確かにアリマタヤのヨセフという金持が亜麻布を持参してイエスの体を包み、新しい墓の中に納めて、その入口に大きな石をころがしておいて立ち去ったとある。これと同じような記述がマルコ、ルカ、ヨハネにも見られるので、この埋葬も事実であろう。

謎の聖骸布の歴史

亜麻というのはアマ科の一年生作物で、茎の繊維でもってリンネルや寒冷紗その他の高級織物が作られるし、種子からは亜麻仁油という良質な乾性油がとれる。当時としては杉綾織の亜麻布は高価な品だったにちがいない。

このときイエスの体を包んだ布が現存する聖骸布と考えられて、世界のキリスト教界から注目を浴びていたのである。 その歴史は次のとおりだ。

紀元30年を過ぎた頃、エデッサ(現在のトルコ東部のウルファ) の町の王であったアブガル五世のところへ 「謎の人物の肖像画が措かれている。どうもイエスらしい」と言って、一人の人間が大きな布を持ち込んだ。これが歴史に顔を出した始まりである。 この王はイエスの教えを信仰して奇跡的に病気が治ったのでイエス信奉者になったのだが、57年に王位を継承した息子がイエスの教えを毛嫌いして原始キリスト教徒を迫害したので、布は城壁の穴の中に隠された。以来、500年近く伝説だけが流れて現物はマボロシと化した。

ところが525年にエデッサが大洪水のため破壊されたため、町の再建工事が行なわれた。そのとき崩された城壁から布が発見されて、それ以来イエスの顔が描かれた聖なる物として崇拝の的になったのである。イエスの顔を見たことのある人が描いたものと思われていたらしい。ただしこの 『絵』 は、ちょうど写真のネガみたいに白黒が逆になったもので、具体的な顔には見えないものであった。

943年、エデッサはビザンティン軍に包囲されたけれども、住民はこの布を敵に差し出して虐殺をまぬがれた。そして1204年まではコンスタンティノープル (現在のトルコのイスタンブール) で保存されたが、146年間の空白を経て、いつのまにかフランスのジョフロア・ド・シャルニーという人の手に渡っていた。この時期、つまり1350年代が聖骸布としておおやけに記録された最初である。

聖骸布はシャルニーの孫娘のマルガレの手に渡り、金に困ったマルガレはこれをサヴォイ公に売った (寄贈したという説もある)。サヴオイ家は11世紀にウンベルト一世が始祖となって以来、1946年までイタリアに君臨した名高い王家である。

ところが1532年12月4日夜、火災で布の一部が損傷したので、管理を厳重にするために1578年、サヴオイ王家は布をトリノ市の洗礼の聖ヨハネ大聖堂に隣接するサヴォイ家の礼拝堂に収めたのである。以来、布はそこに保管され、『トリノの聖骸布』と呼ばれてトリノの大司教の管理下におかれた。その後ウンベルト二世がヴァテイカン法王庁へ寄贈したために、現在はヴァテイカンの所有となっている。

科学界の大論争と放射性炭素年代測定法

▲聖骸布の顔の部分。左が布に出ている像で、右はそれを撮影した写真のネガ。正常な顔に見える。

さて、この布は幅1・1メートル、長さ4・4メートルある。かなり古びて黄色に変色しているけれども、ボロボロの状態ではない。縦に伸ばして広げると、両端に沿って縦2列に三角形の図形のついた模様が見られ、そのあいだに一人の男の正面と背面の像が、布の中心部から上下に黒っぼく浮き上がっている。この布は、イエスのものとすれば、傑刑後に二つ折にされて、折り目の方へ遺体の頭をはさみこんで全身を包んだらしい。両手は下腹部で交差している。 

ところが1898年に劇的な大発見が行なわれた。イタリアの弁護士で写真家のセコンド・ピアが史上最初の写真撮影許可をとり、撮影後に乾板を現像したところ、なんとそのネガに荘厳な顔をした人物の像が鮮明に浮かび上がったのだ! 

つまり布に出ている黒ずんだ奇妙な像は白黒写真のネガに相当し、撮影したネガに現れた像が印画紙にプリントされた普通の写真になったというわけだ。

これは大センセーションを巻き起こした。今まで画家の手になる絵と思われていたものが、一転してイエス・キリストの体の聖痕ということになり、真偽をめぐって学界で大論争の的になったのである。

科学者の論争の歴史も複雑多岐にわたるので詳述は避けるが、1902年におけるフランスの医学者イヴ・ドラージュ博士がフランス科学アカデミーに本物説を発表。医学者ポール・ヴィニョンの香料による偽作説。1931年、イタリアの写真家ジュゼッペ・エンリエによる進歩した撮影技術を駆使した本物説。1959年、ドイツ人科学者団によるエックス線、赤外線、紫外線検査による不明説。1970年、米NASAの科学者ジョン・ジャクソンらのVP18応用によるコンピューター立体画像分析の結果、打ち出した本物説。1978年、アメリカの科学者を主体にした大科学者団による五昼夜にわたる調査の結果、甘された本物確信説等がある。

この聖骸布の像には凄い謎がある。 普通、人間の顔に塗料を塗り、それに布を巻きつけてから広げると、両耳までの部分は横に細長い楕円形に転写されるはずだが、聖骸布の像はそのようなことはなく、人間の顔が立体的に浮き出ているのだ。この謎は解けない。もし画家が描いたものとすれば解剖学に関する高度な知識を必要とするはずだ。

▲聖骸布の全身像。
 それはそうだろう。妨害に屈することなくあれほどの布教活動をやったのだから、頑丈な体でなければ続かないはずだ。スピーカーのない時代に大道演説をやったのだから、よほど大きい声を出さないと群衆には聞こえない。 そうなれば腹筋や声帯の発達した肥満タイプの大男が浮かんでくる。人々を叱咤した親分肌の豪快な男であったと筆者は思っていたのだが−。

聖骸布の男とは

この布の像を調査した結果、判明したのは、男の身長は1・76メートル、体重は約79キロ、年齢は30歳程度。 容貌はユダヤ人のそれであった。かなり頑丈な体格であったらしい。教会芸術の彫刻や絵画に見られる痩せた弱々しいイエスの体とは似ても似つかぬ偉丈夫である。口ヒゲとあごヒゲをかなりたくわえていた跡がある。

聖骸布の研究の結果、具体的に判明したのは、次のとおりだ。

頭皮が破れて出血し、額と後頭部に血のしみがあり、鋭利な刃物で切られた跡が12カ所あった。鼻は折れて、両目も腫れ上がり、瞼も裂けていた。 ひどく殴られたことは明白である。両頬にも切り傷があった。

顔と手足以外の胴体には無数の傷痕を示している。これは男の両側にいた2人の人間からムチで打たれた跡らしい。右側に背の高い男が、左側に背の低い男が立って、交互に打ったようだ。

男の像の両肩にひどくすりむけた跡が残っている。これは重い物を運んだ結果と思われる。 当時、エルサレムの礫刑の罪人は十字架全体を担がされたのではなく、丸太の横木だけを運ばされたのである。 柱はあらかじめ刑場に立てられていた。 だが横木だけでも40キロを超える重量はあったと考えられている。膝にもすりむけた跡がある。刑場へ行く途中何度か地面に倒れたのだろう。

右脇腹の第五肋骨と第六肋骨のあいだに大きな傷口が認められ、血液と、槍で刺されて流れ出た体液と思われる無色の液体のしみが聖骸布に残ってい また両目にはコインがはめられていたことも判明した。これは死後の硬直を防ぐために死体の瞼にコインまたは薄い陶器の破片をはめ込むユダヤ人の習慣に従ったものらしい。死体を洗った形跡はない。だから布には血痕が残っているのだが、これについて重要な結果は出ていない。

以上は1978年10月までに科学者団によって発見された結果である。 だが炭素14年代測定はその時点までに実施されてはいなかった。

アメリカの化学者ウィラード.F.リビーが1946年に開発した放射性炭素による年代測定法は考古学界で一躍脚光を浴びたが、しかしこの方法は絶対的に正確なものとはいえないのである。測定者によってはかなりの誤差が出ることもあるので、同一の試料を数名で分担して測定し、その平均値を出すほうがよいと、トリノ調査団の一人、ドン・デバンは言っている。

この測定法にかけることは早くから望まれていたけれども、ローマ法王は容易にウンと言わなかった。 ところが1988年にやっとヴァテイカンがヨーロッパの数カ所の研究所に聖骸布の切れ端を送ってC14年代測定を依頼したところ、なんと14世紀の布だという報告が出たのである!

これは一体どういうことなのか。

(以下、第3話 ヨハネであったアダムスキーへ続く)

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