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新アダムスキー全集

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中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
  <巻頭言> 歴史的認識と直感力

UFO Contactee No.98 1987 より転載

UFO研究は人間研究


 木星の衛星イオに古代の都市跡が発見されたのにソ連は隠しているというハンガリーの天体物理学者アルバート・フェルトシュタイン博士の爆弾声明はあまりに唐突であったためか、世界的に流布しなかったし、日本のマスコミは全く取り上げなかった。というよりもこのニュースが入らなかったのだろう。しかし高名な科学者が社会的地位の失墜を危倶することなく、あれほどの声明を出したというのは、よほどの根拠があってのことだろう。

 近来、ソ連もアメリカも太陽系の未知の惑星の存在を推測するようになってきた。ソ連は隕石の軌道計算から、アメリカは惑星探査機パイオニアから送られてくる情報を基にして推測しており、まだ確認の段階に至っていないけれども、太陽系の惑星は9個しかないという固定概念に揺さぶりをかけるものとして注目にあたいする。なぜなら人間の持つ知識は絶対的なものではないというレッスンになるからだ。

▲木星の衛星イオ。1979年3月5日、アメリカが打ち上げた惑星探査機ボイジャー1号が36万kmの距離から撮影した写真。

 『宇宙からの訪問者』 の著者ジョージ・アダムスキーは、われわれの太陽系の惑星は9個ではなく12個なのだと述べているが、これを発表したのは1950年代前半の頃で、惑星探査機などは未開発の時代だった。当然、ほとんどの人から否定されたけれども、無理からぬことだ。学校で使用する教科書にはすべて「9個」説が挙げてあり、これを神の御宜託のごとく大衆は信じ込まされていたからだ。現在でもそうだろう。

 ここで認識という問題が生じる。「およそ認識は、主観的には 〔認識する者の立場から見ると〕、歴史的であるか、さもなければ理性的であるか、この2つしかない。歴史的認識は、与えられたものから成る認識であり、理性的認識は原理にもとづく認識である。いったい認識が元来どこから与えられたものであるにせよ、―換言すれば、その認識が直接に経験されたものにせよ、あるいは他の人から聞かされたもの、あるいはまた (一般的な知識として)教えられたものであるにせよ、とにかくはたから与えられた認識である限り、その認識を所有する者について言えば結局それだけの程度の、またそれだけの量の歴史的認識でしかない」と大哲学者カントは 『純粋理性批判』 で説いており、さらに 「客観的な意味での理性認識 (換言すれば、本来の人間理性からのみ初めて生じるところの理性認識) は、それが理性に存する普遍的源泉即ち原理から汲みとられたときにのみ、主観的にも理性認識という名を帯びることが許されるのである」と述べている。そしてヴオルフ哲学の体系のことを例にあげている。

 いささか難解なようだが、これは要するに、真実を知るには他人から与えられる知識をう呑みにするよりも自分自身の直感力を主体にせよと言っているのだ。早く言えば、宇宙的印象を感知するテレパシツクな人間になれと説いているのである。この真意がつかめぬために深遠なカント哲学は一般に親しまれなくなった。それはともかく、教育というのは良くも悪くも恐るべき催眠術的効果を発揮するから注意を要する。その注意は教育する人の側に向けられてしかるべきだろう。

 アダムスキーの諸説は未だに多くの人から否定されている。しかしその否定の根拠はカント流に言えば与えられたものから成る歴史的認識にすぎない。

 学校で9個と教えられたからという、それだけのことで既成概念が形成されて、以後は太陽系に対する認識の進展がないというのは恐ろしいことである。

 しかし 「隠されているもので漏らされないものはない」 というイエスの警告どおり、太陽系諸惑星の真相は少しずつ一般に流れている。そして結局どのように客観的に見ても緩慢ながらアダムスキーの宇宙空間に関する諸説が正しかったことを立証する方向に宇宙科学が動いていると言えるようだ。

 おそらく来世紀になればアダムスキーの著書類における記述や描写は日常茶飯事になるかもしれない。悪魔病原説を打破して病原菌説をとなえたパストゥールの発見が後世で常識化したのと同様にだ。

 だが人間の直感力といっても個々のレベルがあり、千差万別であって、必ずしも一様ではない。各自が自分自身のレベルでもがき苦しみ、模索し、試行錯誤を繰り返しながらレッスンを学んでいる。つまり万人は各自が或る絶対値の上に立って思考し、それなりのレベルに自己を位置づけているのである。ある時点における絶対値は本人に必要なのであって、その時点においてはそれ以上でもそれ以下でもない。具体的に言えば、アダムスキーをどのように否定する人がいても、その時点において否定することが本人にとっては最良の学習なのだ。このようにみると否定論者をとやかく言えなくなってくる。むしろ祝福の想念を送りながらあたたかい目で見るのが高潔な態度だということになるだろう。

 こうなると編者の持論「UFO研究は人間研究」の意義が浮上してくるような気がする。ひとくちにUFOといっても、ものすごく複椎多岐な問題が含まれていて、前述のごとくカントまで引っ張り出すことになるからだ。このカントが地球以外の"人類が存在する惑星群"を想定していたことは案外知られていない。 

(久)

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