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 シベリア謎の大爆発

第2話 UFOと宇宙 No.12 1975 より
 

1945年、ヒロシマとナガサキの強烈な閃光とキノコ型雲を伴った大爆発は、シベリアの大爆発を思い出させる。

爆発したのは宇宙船か?

ソ連の雑誌フォクルグ・ツベタは1946年9月にSF作家のカザンチェフが書いた記事を掲載したが、それによるとツングースの落下物は別な惑星から来た核エネルギーを持つ宇宙船ではないかと推測している。

その宇宙船がシベリアの森林地帯へ着陸しようとしたときに爆発したのだという。どのみちこれは核爆発だったし、しかも地上の空間で爆発したために、宇宙船の破片は全然残らないし、地上の爆発でないのでクレーターもできないことになる。このことは爆心地のど真中で、ある樹木群は直立しながら枯れているが、他の広い地域では樹木がなぎ倒されている理由を説明する。爆風に対して直角をなす樹木は梢や枝葉だけがなくなっているが、爆風の方向に対してもっと鋭角をなしている木は、周囲数マイルにわたってなぎ倒されていたのだ。

カザンチェフの説は全くの空想だとして科学界で完全に拒否された。唯一の味方は世界的に有名なUFO研究家であるフェリクス・ジーゲル教授であった。ただし多数の人もこの間題を深く追求していたので、カザンチェフの”バカげた考え”にもまだ支えはあったのだが―。

「ツングースに着陸した物体は、しかもこれは全く疑う余地のないことだが、隕石であって宇宙船ではない」とアカデミ−会員のX・フエセンコフが書いた。一方、ロシア隕石研究センターの科学部長E・タリンコフも一、二言述べた。

「あの爆発はカザンチェフが言うような、数百メートル上空で起こったものではなく、物体が地面に衝突した瞬間に発生したのだ。そのためにできたクレーターはすぐに水で満たされた。ツングースの隕石やその起源に関して謎は全く存在しない」

”以上終わり”だ。しかしSF作家の達した非科学的結論が、学者のまじめな声明よりも、実際に観察された事実にもっとうまくあてはまるとはいえないだろうか?

1959年から多数の新しい探険隊がツングースへ行った。主としてシベリア、ウラル、モスクワ、レニングラードなどの若いアマチュア研究家から成る探険隊である。彼らはこの探険を休暇旅行とみなして最初から自活した。

▲ゾトキンらの模型による倒木実験
▲ゾトキンらの模型による倒木実験

二種類の調査隊が編成されたが、これらは今も存在している。第一のチームはA・X・ブロトフが隊長になったが、この人はソ連地理探険サービスに属する人で、今もってあの爆発は大気圏外に源を発する核爆発だったと考えており、これこそあの事件にあてはまる唯一の説だと思っている。数年後にソ連のいろいろな科学者がグループに参加した。E・K・フエドロフ、M・A・レオントビッチ、B・P・コンスタンチーフなどである。地理学者のブロトフは現在第一流のツングース爆発問題専門家の一人とみなされている。

第二のグループはG・プレカノフとN・コシュロフが率いた。この2人も1908年のツングース・タイガの上空でたしかに核爆発が発生したと考えているが、ただし自然の原因によるものだろうという。ツングースを荒廃させた”物”は放射性宇宙塵だというのだ。この第二グループは発展して、今は公式の”シベリア及び東部ロシアに落下した大気圏外物休に関する実験研究協会”となっている。

1958年にキリル・フローレンスキーの率いるソ連隕石学会の専門家から成る調査団が、初期の先駆者クーリクの足跡をたどってツングースへ行った。そして数年間の調査の後、”隕石が空中で爆発した”という決定的な結論に達した。彼らは単に衝撃波の方向やその結果を計算したのではなく、ポツダムの地理学会の記録資料から掘り出された1908年にさかのぼる自記気圧計の記録を調べた結果、決定したのである。

このことから彼らは地表上空の空気の移動は5キロメートルの高度で最大限に達したと判断した。大体この高度で”物体”がツングースの上空で爆発したというのである。これは1年後に他の実験で確証された。

T・T・ゾトキンとM・A・ティスクリンは1万分の1のスケールで爆発現場を再現するために、2メートル×3メートルの地面に決山の小さな木クギを立てて実験を行った。爆発と衝撃波を調べるため、このミニ森林の上に斜めの棒を渡し、それにミニチュア爆弾を吊り下げた。この”爆弾”を棒にそって移動させたり種々の速度や高度で爆発させたのである。この実験によって27度の角度以下で爆発させると必ず実際の爆発現場に似てくることがわかった。測定の結果、5キロメートルの高度ならやや考えられるが、10キロメートルの最大高度が有利であるということがわかった。

一流のツングース事件の専門家とみなされている著名な権威者フエセンコフ教授は、数年前カザンチェフの説を怒って否定した人で、右の実験の結果に同意した。ところが同じフエセンコフが、ツングースの大破壊は隕石が原因ではないと確信するようになったのである。なぜなら完ぺきな磁気測定法によって判明した事柄は何一つないばかりか、タイガの特徴である氷層(厚さ25メートル) は現場の中心部やその付近で破壊されていなかったからだ。この氷が―氷河時代の名残りだが―Iあれほどの大災害をもたらしたほどの巨大な物体によって破砕されたり一時的に溶けたりしたあとで、一点の傷跡も残さずにふたたび結合することがあるだろうか。

この大爆発は地磁気に大きな変化をもたらし、イルクーツクばかりかグリニッチでも観測された。こんな激烈なかく乱が隕石で起こるだろうか。しかも1908年に連続3夜続いた光輝現象は、地上の何かの粒子雲のせいだとは考えられない。大きさは別として、いったい隕石が地球に突入して爆発したと仮定しても、大気圏内のそのような高度で塵雲を発生させるだろうか。だいいちこんな雲が数時間でバノバラ、ロンドン、パリ間の距離を移動するだろうか。だから隕石ではないとフエセンコフ教授は言うのだ。

慧星落下の形跡もない

何か他の天体かもしれないと考えたフエセンコフは次の一文を発表した。

「1908年に1個の慧星がツングースのタイガ上空で爆発したことは全く疑いない」

フェセンコフが「全く疑いない」と言っている点に注目すべきである! 我々に知られているあらゆる天体の中で、 慧星だけが(隕石とアステロイドは別として)地球と接触する可能性はある。これが隕石から慧星に原因説が変わった理由である。隕石説が1960年頃に最も保守的な学者によって否定されたあとのことだ。だがこれは新しい考え方ではない。

▲爆心地の沼
▲爆心地の沼

アメリカの天文学者ウィプルが1930年にこの考えを出しており、これはまもなくソ連の天文学者T・S・アスタポピソテによって支持された。6月30日と7月1日及び2日のシベリアと中央ヨーロッパの各夜は空が異様に輝いて、これが慧星説をとり入れるおもな根拠となった。この輝きは地球大気圏内の慧星の尾によって起こったのだろうというのだ。ジーゲル教授は慧星説に反対する論説のほとんどを打ち出した人である。

この慧星説が認め得るようなものであるとしても、徹底的な批判に耐えるものではない。もし慧星が実際に地球に撃突したら、どうなるだろうか? 

慧星の中心部は直径数百メートルの固い氷である(なかには数キロメートルに及ぶものもある)。こんな巨大な氷のかたまりは隕石と同様に多くの物質の破片を含んでいる。表面は比較的薄い宇宙塵の層で覆われており、中心部の水中はメタンヤアンモニアのようなガスから成り立っている。だから慧星が太陽に接近して中心部の温度が上がるとガスが液化して、数百万キロメートルにわたる尾ができるのである。圧力下で逃げ出すこのガス類は尾の中へ宇宙塵を引き寄せる。ところがツングースの仮説上の慧星は、大破壌を調査してみて、放出されたエネルギーが少なくとも10の23乗エルグと推定される事実から見ると、小さなものとは思えない。

1908年にもし巨大な慧星が地上に落下したとすれば、直径数キロメートル、深さ数百メートルのクレーターができたはずだが、すでにわかっているように中心部にはそれらしい跡はないし、今日有名になった沼も激烈なダメージの跡を示してはいない。しかも爆発したものが何であるにせよ、その破片が全然ないということは、限石の場合と同様に慧星説をも疑わしくさせるのである。慧星や隕石のかけらは全く発見されなかったのだ。ロンドンやパリの市民が新聞が読めたというあの夜の光は慧星の尾によるものとは考えられない。

地球では数度にわたってこのような現象があったが(1861年、1882年、1910年)、1908年事件のような光輝現象や地磁気の異変は見られなかった。慧星が数千万キロメートル彼方にいても、地球に接近するすべての慧星の尾は強烈に輝いて巨大に見える。

だから1908年に慧星が実際に地球へ落ちたとすれば、放射されるエネルギーの量からみて、あの巨大な物体はかなり以前から見えたはずである。たしかなのは、絶えず伸びる尾ならだれか一人の人間の目につきそうなものだということだ。

1961年の探険隊は珪酸塩と磁鉄鉱の粒を爆発現場付近で発見したが、隕石から出る同じ物質は世界中で見出されている。しかもこれは1908年の爆発とは関係ないことが立証されているのだ。

大破壊をひき起こしたのが慧星ではないことを裏付ける別な理由がまだある。これは弾道学と関係のあるものだ。限石学会が慎重に地図を作ったのだが、倒れた樹木群は疑いなく二種類の衝撃波があったことを示している。

一つは爆発前で、これは物体が空中を飛んだときに激しい空気の移動によって起こったものである。もう一つは爆発後である。電算機を用い、目撃者が見たとおりに飛行コースを再現して、航空機設計家のA・モノツコフは物体が速度を落としたことを立証した。普通の慧星や隕石ならば秒速10-15キロメートルなのに、物体の爆発の瞬間には秒速0.7-1キロメートルであった。この速度は現代のジェット機のそれに近い。この速度で墜落したとすれば(天体の落下速度としては問題にならぬものである)、物理学上の諸法別に従って、あの大破壊を起こすのに数十億トンの重量を必要とするはずである。宇宙空間を飛ぶ物体としてこの巨大な重量は異常なものではないが、物体の直径がわずか1キロであったと仮定しよう―これは事実とは違うのだが―。こんな怪物の残骸がどこに残っているだろう!したがって隕石説も慧星説も「全く疑いなしに」間違いなのである。

>>第3話へ続く

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