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 大ニューヨークの郊外に円盤着陸事件 第1話 

UFOと宇宙 No.22,23 より転載

深夜のノース・ハドソン公園で土壌サンプルを採取する宇宙人?が目撃された!TVもラジオもこの出来事を大きく報じた。
テッド・ブローチャー

◆目撃者ジョージ・ オバンスキー

ノース・ハドソン公園は、米ニュージャージー州ノースバーゲンに位置するハドソン郡の共有地である。ニューヨークのセントラル・パークの西2マイルの場所で、広さはセントラル・パ−クの紛4分の1、うす汚い市街地域にある市民の憩いの場所である。この市街地は北のフォートリーから伸びて川べりの断崖の岩層の頂上にそって、10マイル南のジャージー市まで達している。約50万の住民がこの突起した人口密集地に住んでおり、断崖とハドソン河により東端で境されている。西の方には未開発の広大なニュージャージー州の牧草地帯が展開している。

この地域の画期的事件の場所となったのは、ノースバーゲンのケネディー・プールバード・イースト8200にあるストーンヘンジ・アパートメントである。これは風変わりなデザインの近代的な、高級高層建築で、ノースジャージーでは最高層ビルだといわれている。それはマンハッタンの西89番衝からみてハドソン河のすぐ向こう側のパリセード急斜面のふちに不安定に建っている。建物の西側には広い森林地帯と遊び場、それにノース・ハドソン公園を含む湖がある。くっきりと孤立したそのビルは、あたり一帯を見渡しながら堂々とそびえている。どこから見ても印象的な建築物だ。ストーンヘンジという名称そのものが、過去からの暗い、かすかな不気味な響きを呼び起こす。実際、その現場は1975年1月以来、ときどき発生してきた不思議な予期し得ない事件の舞台なのである。その地の住民による個々の報告によれば−。最初の事件は、ほぽ偶然に発生した。

1975年11月20日の夕方、ニューヨーク市の抽象画家.ハッド・ホプキンズから電話がかかってきた。私の知らない人である。彼は知人から聞いたという驚くべき話をした。それによると、1個の未確認物体が着陸した光景と標本を集めている乗員を10ヶ月前に見たという。それはニューヨークの中心街地域から見て、河の真向かいにあるノース・ハドソン公園に投げかけられた早朝のマンハッタン高層ビル群の影の中である。しかも、この異常な事件の目撃者は15年以上もホプキンズの知っている人で、目撃者としての信頼性は確実に保証されるという。

この近接コンタクト、タイブ3(UFOの近接目撃)の目撃者は、ジョージ・オパースキーという72歳の男やもめで、ノース・バーゲンに住んでマンハッタンのチェルシー地区に酒店を共同経営し、毎日車で店へ往復するのである。

1975年1月の事件のとき、オバースキーはノースバーゲンの自宅で20歳代の大学生の息子フランクと共にいた(我々の調査中、彼はロードズ奨学金でオックスフォード大学に行っていた)。オパースキーは息子以外の人に自分の体験を話してはいなかった。こんな話は信じてもらえないから、だれにもしゃべるなと息子が忠告していたのである。10ヶ月間、目撃者は息子の言葉を守り、沈黙を続けていたが、その体験で彼は深く悩み、共鳴して聞いてくれる人に打ち明ける必要を感じて、ついに明るみに出したのである。

パッド・ホプキンズがUFOに興味を持っていることをこの目撃者が事前に知っていたら、この事件は隠されてはいなかったろう。というのは、オパースキーの酒店の真向かいに住むホプキンズは、彼の顧客の1人としてしょっちゅうオパースキーに会っていたのだが、2人は親友とはいえないにしても、オパースキーはバッドの適度な酒の要求に応じたばかりでなく、個人小切手の換金等のちェっとしたサービスもしていた。2人の関係はある特殊な興味の範囲に限られていたが、その閑係内では友好的だった。ところがあいにくこの事件の話はほぼ偶然に明るみに出たのである。あるきっかけがなかったら、おそらく洩らされなかったことだろう。

しばらくの間、ホプキンズは何かがオパースキーを悩ませていることに気づいていた。「いつも俺が飲む最上のやつかね」と特別なワインをすすめたりするような、いつもの好意的なからかいの言葉をめったに出さなくなったのである(ジョージ・オパースキーは実際には絶対禁酒主義者だった)。こうした折りに、彼は最近わが身にふりかかった数々の"最も忌まわしい出来事"の1つについて"恐ろしくて膝が震える"とつぶやいていたのである。

その出来事のなかに"空中から出て来て、彼をすっかりおびえさせた"この事件があったのである。この瞬間的なつぶやきはすぐにホプキンズの注意を引いた。それで彼は詳細を話せと老人にせまった。オパースキーが重要な意義を帯びた異常な体験を意識していたことは明白だった。その話の始め頃、ホプキンズは言い訳をして、自分のテープレコーダーを取りに道路へ出て行った。そして事件が断片的に洩らされるにつれて、録音することができた。ただしお客さんが出入りするので、たびたび話が中断した。これは1975年11月19日の夕方である。この告白は明らかに目撃者に対して下剤的な効果を与え、ホプキンズは相手の事件がこの話にこめられた驚愕と恐怖の力に打たれたのである。

■調査の背景

バッド・ホプキンズは私との共通の知人から私の名と電話番号を知り、次の日の夕方、私に電話をかけてきた。そこで私たちは今後の調査についてただちに計画を立てた。11月21日にホプキンズの自宅で会い、目撃者の驚くべき話を録音で開いたのである。そのあと私たちは道路を横切って行き、初めてジョージ・オパースキーに会った。体験に閑する彼の当惑ぶりはまぎれもないものだった。私たちは翌日の土曜日の午後(11月23日)に現場で目撃者に会う手筈をととのえた。そして私はMUFON(相互UFOネットワーク)とUFO研究センターの情報通である研究家、ジェリー・ストーラーに援助してくれと頼んだのである。

こうして目撃者との現場検証に加えて、ホプキンズとストーラーは翌週末(11月30日)にふたたび現場で会って、その場所の測定や撮影を行い、特に最初の調査で我々が現場で発見した地面の痕跡などを調べたが、いずれの横会にも近くのストーンヘンジ・アパートのドアマンにインタビューし、これらの調査中にそのビルのロビーのガラス窓が割れたことを知ったのである。これはオバースキーのコンタクトと同じ時刻に謎の状況下で発生したものだった。その頃、当番についていたドアマンは、オパースキーの言う物体がその地域に出現したのを目撃するのに都合のよい位置にいたと思われるので、ガラス窓が割れたとき当番についていたドアマンの名前を聞き出してみた。それはウィリアム・パウロウスキーという人だが、もうストーンヘンジで働いておらず、すでにニュージャージーの海岸部へ移住していた。ややこしい問い合わせを繰り返した結果、我々はついに電話で相手をつかまえることができたのである。

12月5日にバッド・ホプキンズが電話でパウロウスキーと話し合ったとき、我々の努力は報われた。というのは、このドアマンはガラス窓が割れた夜、たしかに異常な光体を見たことや、この現象はオバースキーの目撃と同じ夜に発生したことが判明したからである。私は12月7日の土曜日にニュージャージー州ブリックタウンのパウロウスキ−の自宅でインタビューする約束をして、私とジェリー・ストーラーはその日に目撃者から詳細な説明を開いた上、数々のスケッチも描いてもらったが、この情報はジョージ・オパースキーが述べた詳細を裏付けるものだった。この元ドアマンはオパースキーの目撃のことは知らなかったのである。主な目撃者とは現場から10倍も離れていたパウロウスキーは人間の姿などを見なかったし、この距離と、彼が当時屋内にいたという事実は、オパースキーが体験した詳細な観察とは閑係ないことになる。

窓ガラスの損傷は公園内の光体の目撃と同時に起こった。何者かの破壊行為かもしれないと考えたパウロウスキーは、警察を呼んだ。ただちに2人の警官が現場へ到着したが、光体はすでに消えていた。そしてパウロウスキーは信じてもらえないと思って自分の目撃については何も言わなかったのである。しかし彼は別な警官である同じビルの住人、アル・デル・ガウディオ警部補に、窓が割れたとき野原に見られた不思議な光体のことを知らせた。

光体の出現に関連して生じた異常な物理的影響は窓ガラスだけではない。パウロウスキーが語ったところによると、彼が朝8時に当番から離れた同じ朝、プールバード・イーストのすぐ向かい側の公園の中の大きな楡の木も、同じように謎の損傷を受けていることに気づいたのである。その原因は不明である。理由になりそうな嵐はなかったからだ。

12月初旬、ホプキンズとストーラーは、目撃時における舞台をもっと正確に知るために、真夜中すぎに現場へ行ってみた。12月8日、ホプキンズがデル・ガウディオ警部補へ電話をかけると、この警官は、窓ガラスがこわれたとき公園内に1機の光体が"降下"するのをパウロスキーが報告した事実を認めた。ただしUFO懐疑論者として、彼は2つの事件に関連があるとは思わなかった。12月9日に、ホプキンズとストーラーはノースバーゲンの警察署へ行って、ドアマンが持ち込んだ苦情に関する事故記録帳を探したが、見つからなかった。12月11日にストーラーはまたパウロウスキーに会ったが、今度は現場である。そして最初のインタビューで示されたよりももっと綿密にオパースキーの着陸現場に適合する位置定めに関して、更に有益な情報を入手した。続いて我々の調査は1976年に持ち越されたのである。

我々は他の情報源からも資料を入手するように努力した。こわれた窓ガラスを入れ換えたウエスト・ニューヨーク・グラス・カンパニーにも接触して事件に関する資料を入手し、その時刻の記録も手に入れようと試みたが、これはだめだった。ストーンヘンジの経営者にも会ったが、相手はこちらの調査に関心をもたなかった。ビルの管理人にも会い、事故の記録のコピーを要求したけれども、記録はもう入手できないということだった。2月24日と3月19日には、公園管理人フランク・スポールドリーと助手のボブ・アテンポロに、ジェリー・ストーラーがインタビユーしたところ、両名とも楡の木のキズが異常な性質のものであることを確証した。ただしまたも事故記録がなく、2人ともそのキズがいつついたのかは知らなかった。

■付随事件が明るみに出た

我々がジョージ・オバースキーとビル・パウロウスキーの現場証言をビデオテープにとっていた1月18日、次の事実を知って仰天したのである。ストーンヘンジの2番日のドアマン、ピル・デーリズが、ちェうど3日前(1月15日)にアパートの反対側の広場に物体が着陸したのを見たのだ。しかも先の事件と同じ時刻で、全く同じ場所なのである。彼が語ったところによると、2個のタマゴ型物体が互いにわずかに重なり、1つは赤、1つはオレンジ色で、丘の頂上のむこうにいるのを見たという。もっとくわしく見ようと外へ出たとき、物体は1組となって空中へ急速に上昇した。上昇するにつれて色は暗くなった。1月18日に語ったところによると、彼は他に見たという人の報告を知らなかったという。我々は1月25日に長時間にわたって彼にインタビューした。

この頃、バザド・ホプキンズはマンハッタンのリバーーサイドドライブ86丁目の高層アパートに住む友人たちから次の話を聞いた。隣の家族の息子が、1月23日の夜、"丸いビル(ストーンヘソジ)"の付近の河向こうに、オレンジ色の物体を見たというのである。25日に我々がビル・デーリズに会っていたとき、ストーンヘソジの管理人アモーリー・ベレスが、そのビルの元ドアマンによる別な目撃について話してくれた。ベレスが思い出した限りでは、その目撃は窓ガラスがこわれた事件と同じ頃に起こったという。彼はその男の名前と住所を知らせてくれた。この元ドアマンのフランシスコ・ゴンサレスは、当時ウエスト・ニューヨークからブロンクスへ移住しようとしていた。そこでビル管理人の仕事を見つけたのである。私は1月29日に彼に電話をかけて、2月1日にホプキンズとストーラーに会うように手配した。

どうも偶然の一致が多すぎるのだ。

1月29日に私がゴンザレスへ電話をかけた同じ日に発生した別な目撃が、マンハッタンの9番街23丁目の高層アパートに住む目撃者によって行われた。バッド・ホプキンズの知人であるアン・カー夫人が、数日後にその事件についてホプキンズに話したのである。彼女はノース・ハドソン公園から数マイル南の小さな町、ウィーホークンの方向にあたるハドソン河上空に静止しているコマ型の光る物体を見たという。この目撃の重要性は高まった。というのは、後になって我々は、それと同じ夕方の同じ時間帯にフェアビユー(ニュージャージー州)の生徒が、公園内の湖の近くに細長い脚を持つ1機のUFOが着陸したのを見たと言って、恐れおののきながら帰宅したことを知ったからだ。約1ヶ月後にその地域で別な目撃者たちの話が明るみに出たり、その事件の短い記事が2月27日付ハドソンディスバッチ紙に出たりするまでは、その少年の話は母親に信じてもらえなかった。しかしこの少年の名前はわからない。

1月末までには、我々はできるだけ多くの未解決事を元の報告に結びつけてゆき、ハッド・ホプキンズはニューヨークで広く読まれている週刊新開ビレッジ・ボイス紙へ記事を送った。この記事は2月中旬の号に掲載されることになっていたが、2週間後の3月1日号にやっと載った。この新開は2月25日、水曜日にニューズスタンドで入手できたが、これが出るまでにも公園内でもっと異常な事件が発生したのである。

◆頭部にライトをつけた不思議な人間。

■不思議な人間が出現!

1976年2月19日の木曜日、午前2時頃、またも別なドアマンが(彼は氏名を聞いてくれるなと言った)、元の着陸場所から遠くない所で、奇妙な動作で動いている1人の異常な人物を見た。この人間の身長は普通で、作業服のようなものを着ていた。頭部にライトがついて、ぎこちない歩き方をし、地面から何かを拾い上げるかのようにしばしば体をかがめるのだ。ハヅグを持っているらしい。頭のライトはつけっばなしのままで、人間がかがみこむと、地面をかすかに照らした。公園の暗い場所だけを歩きまわるのである。人間は約20分間、ドアマンに目撃された。

ロビーの中とピルの前の車道の両方からである。このときドアマンは事件について何も言わなかった。

翌朝(2月20日)の同じ時刻頃、別なドアマンのテオフィロ・ロドリゲスが、前夜と同じように行動する、似たような人間を見た。ロドリゲスが言うにほ、この人間は何かを拾い上げるのか、または地面に何かを置いているかのように、絶えずかがんでいた。頭部のライトが体の周囲の地面を照らしたが、前夜と同様、人間は公園の暗い部分から離れなかった。ドアマンはビルの内外から2時間以上も人間をちらちらと見ていた。このときロドリゲスは何も言わなかったが、翌朝、同じ人間がまたも現れたとき、彼はストーンヘンジの保安要員アルベルト・ベレスに知らせた。初めは疑ったベレスは、自分で確かめるためにビルの前の道路へ出てみようと言い出した。

そして彼も約150メートルむこうの旗竿の近くで動きまわっている人影を見たのである。その人物と奇妙な行動に関する彼の説明は、2人のドアマンのそれとは大体一致したが、ただしベレスの意見では、ライトは頭ではなく、手に持っていたという。彼が言うには、人物は重い長グツをはいているかのようにゆっくりと歩き、繰り返しかがみ込み、地面に何かをねじ込むような動きを示していた。彼は一定時間だけ見ていたのだが、一方ロドリゲスは朝の5時近くまでたびたび人影を見たのである。 ロドリゲスが土曜日の朝、2夜前に人影を見たドアマンと交替したとき彼は事件のことを話し、その人物の最初の出現のことを初めて知ったのである。それから1遇間以内の2月25日、オパースキーの体験がニューヨークのテレビ5チャンネルの「10時のニュース」で放送されたのを我々がテープに録音した後のことだが、我々はその事件について開いた。ベレスとロドリゲスは2月27日にストーンヘンジでホブキンズとストーラーによる長時間のインタビューを受けたが、ベレスはストーラーに自分の目撃の詳細な説明をし、3月14日には私にも話してくれた.この目撃者たちはあの人物の出現に"驚異的な"意義を認めず、2人とも何の役にも立たない"キチガイ男"だったにちがいないと言う。

■白昼、UFOが出現!

こうした一連の目撃事件は2月22日の日曜日にクライマックスに達した。今度は白昼、公園上空にUFOが出現したのである。正午少し前のひどい大雨の際中に、ドアマンのエディー・オパートゥべッシングが静止した円盤型の物体を見た。丸く、平べったくて、クロームのように輝いている。黒雲が急速にかすめ飛ぶあいだ、この変哲のない物体は強風の中に静止しており、速い雲で見えたり隠れたりしている。約20分間出現した後、渦巻く雲で急に隠されてから消えてしまった。数分後に空が晴れると、もう見えなかった。ドアマンは2番日の目撃者に知らせる余裕があった。これはビルの管理助手ジョージ・ロークで、彼もその物体を見たのである。こ町目撃は2月24日にテレビ番組をテープにとっているときに、わかったのである。

3月5日にオパートゥべッシングが報告したところによると、その週の初めに、ストーンヘンジの公園を見下ろす高層階に住む婦人が、夜9時30分頃、自室の窓から外を見ると、小さなきらめく物体が公園の地面近くの空間を矢のように飛んでいるのを見て驚いたという。彼女がドアマンに告げた話によれば、そのとき公園には人影はなく、物体は4方八方にメチャメチャに走りまわり、アパートの向かい側の芝生の上を動いたり、湖のあたりまで動いたりした。前後にかすめ飛びながら物体は赤と黄色の火花を放った。この事件の日付は後に3月1日ということになった。目撃者は氏名を隠したがっており、直接のインタビユーには応じたがらない。

■ストーンヘンジ事件に対するマスコミの反応

ビレッジ・ボイス紙3月1日号に掲載されたバッド・ホプキンズの記事に対する反響は、すぐにショッキングなものとなった。少なくとも4種のニューヨークのテレビ局が、2月25日と26日にニュース番組でオパースキーとパウロウスキーの目撃事件を放送したし、地元のラジオも事件を報道した。その結果、ストーンヘンジ事件に対する異常な関心がニューヨークで高まった。続く数週間、我々は数十回の電話や手紙を受け取ったが、その多くはニューヨーク地域のUFO事件類に関するもので、なかにはずっと以前にさかのばる事件もあった。

◆ストーンヘンジアパートメント

当然のことながら、こうした反響には"雑音"的な報告も多く含まれている。"空中の光体"については他意のない誤認もあるだろうし、利己的な目的の報告もあった。3月6日の土曜日には、ノースジャージーのある円盤関係出版社の支持下にノース・ハドソン公園は大混雑の場となった。その日、よく知られているシカゴのある"霊媒"の到着を迎えるために、数千の群集がそこへ集まったからだ。この霊媒は過去1年間に現場へ釆たUFOの山なくとも1つから"波動をキャッチしよう"と声明していたのである。新聞社はバカげているけれどもセンセーショナルな記事を求めて、大挙して出かけた。彼らは失望しなかった。

この霊媒の実験は不成功に終わり、うんざりするようなものだったが、≠に知られない目撃事件の当事者たちも失望させて体験を洩らさなくするよえなことはなかった。なぜなら目撃者たちの体験報告が依然として流出し続けたからである。より強力なケースに対する追加調査が3月中に行われた。ノースバーゲン地域から出た、もっと実質的な報告の1つは、1972年10日14日に発生した古い目撃事件のそれである。ニュージャージー州ベルビ山の若い男が、ノース・ハドソン公園から数ブロック下手のプールバード・ノースト通りを南へドライブ中、ハドソン河のニュージャージー側からゆっくり上昇する強烈に輝く物体をはっきりと見たのである。最初に目撃したときは、青年の真反対側にいた。彼はすぐに車を道ばたへ寄せて外へ出た。物体は1列の白い光線を放っており、犬が尻尾を振るようにそれらが交互に上下に動いていた。約5分後にUFOがジョージ・ワシントン橋へ近づいたとき、その物体の光が突然消えて、物体は高速で上昇した。

別な印象的な近接目撃が、オパースキー・パウロウスキー事件のわずか5時問前に同じ地域で発生したこともわかった。ご1月25日にジェリー・ストーラーが、ストーンヘンジ事件についてノースバーゲンのロバート・フルトン校PTAで説明するために招かれた。その会合の進行中に、ジューゼフ・ワムスリー夫妻とその3人の子供が、ノース・ハドソン公園からちェうど12ブロック南のウエスト・ニューヨークのプールバード・イースト67丁目の自宅の外で、急速に回転する光線を伴う1個の物体を見たのである。物体は北の方のビル群のかげにかくれて見えなくなったので、家族は道路へ走り出て、はっきりと見た。物体は"丸いビルディング"のうしろへかくれて見えなくなった。

ノース・ハドソン公園地域から我々が調査してきた一連のUFO体験は、2種顛の特別な活動期間に分けることができる。1つは1975年1月の最初の報告類。次に、その初期の事件を我々が調査していた最中に発生した約1年後の報告頼である。次号で、1975年1月の事件を詳細に述べることにしよう。 

(第2話へ続く)

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