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 聖書とUFO 第4話(終) ジョージ・アダムスキー

 日本GAPニューズレター 第80号 Winter1982より

円盤は人々を傷つけたりおびやかしたりするために来ているのではない。円盤の飛来目的を理解していない人々から非難されてきたけれども円盤はだれをも傷つけたことはない。

異星人は地球人を救いに来ている

地球の航空機にたいして敵対行為に出たりその乗員をさらったりしたこともなかった。エリヤがそうであったように、連れて行かれて、後になってから、知っていることを教えるために帰って来た人もいるかもしれない。たぶんこの例はまだ起こるだろう。そして蒸発した人はそのようなメッセージをたずさえて帰って来るだろう。ただしその人たちを精神病院に投げ込んだりしなければだ。

我々は罪人ということになるのだろうか。ルッペルト大尉の著書は地球の軍隊が円盤を攻撃したことを認めている。もしこの円盤なるものが空軍が主張しているとおりのものであるとするならば、なぜ撃つのだろう。円盤が惑星間航行用の宇宙船であるとすれば、なぜ撃つのか?後者の場合、宇宙を航行できるほどのすごい技術を持つ人ならば、当然撃ち返すことはできるだろう。

しかし撃ち返していないという事実は、この訪問者たちが友好的であって、地球を征服する欲望を持たないことを決定的に証拠づけるものである。もし異星人が我々を征服しようとしたなら、我々は全く自分で防ぐことはできなかったであろう。我々は彼らの科学的能力を絶対に凌駕することはできないだろう。そして最も確かなことは、我々はいかなる最高のロケット類や航空機をもってしても円盤に追いつくことはできないのである。

彼らは地球人にたいしてどんな敵意をも示したことはなかった。空(天)から来るものは何でも常に天使、神または主とみなされてきたのなら、我々は天使や神を撃っていることになるではないか。このことは、最後の時代において地球の諸国民にとって必要なときに地球人を援助するためにやって来る天使たちにたいして地球人は抵抗するであろうという聖書の予言を実現させることにならないだろうか。忘れてならないのは、天使はいつも普通の人間として描かれていたという点である。聖書のどこにも天使は翼を持っているとは言っていない。『創世記』18・2には、アブラハムに現れた3人の天使が全く人間のように見えると述べてある。聖書中の多数の箇所で、人々と一緒に道を歩いた天使たちが人々の食物を一緒に食べたり家に泊まったりして、あとで自分たちが地球の人間ではなくて天使であることを洩らしたことが出ている(「ヘブル人への手紙』13・2。『ルカによる福音書』16・5など)。

他の惑星の人々が古代において地球へ派遣されていたというのに、現代は派遣されていないとだれが言えるだろう。人類が苦難におちいるたびごとに彼らは出現して、それを切り抜ける方法を教えるらしいのだ。人類がそれを聞きいれるならば大抵は最少の努力で苦難をのがれるのであるが、その忠告を無視すれば人間は稼いで得たものだけを受けとるのである。今日ほどに世界が大きな苦難に直面しているときはないだろう。 多数の人がスペース・ピープルはクリスチャンなのかどうかを知りたがっている。私ならば彼らは地球人以上にすぐれたクリスチャンだと言いたい(訳注=これはキリスト教徒という意味ではなく 、宇宙の法則を生かしている人の意)。地球人はイエスの教えを信じたのではなく 、ただそれを復誦していただけのことなのだ。地球人は人々の前でクリスチャン″というレッテルとイエスの名とを飾っておくためにそうしてきたのである。ただそれだけのことなのだ。人間は信ずることは何でもそのとおりに生きているが、キリストの教えを生かしてはこなかったのである。

我々がキリストの教えを生かしてきたならば、苦痛、悲哀、または今日さしせまっている滅亡の脅威などはなかったであろう。イエスの教えが我々の日常生活に応用されたならば、以上の状態は存在しなかったであろう。地上に事実上の天国が出現していたであろう。

ときおり我々は日曜、クリスマス、復活祭などの日にキリストの教えを復誦する。それから外へ出て、次に思い出させられるまではすっかり忘れてしまうのである。その教えを生かすほどに把握していないのだ。ここでふたたび宇宙の使者たちが我々に警告している例をあげよう。

『宇宙からの訪問者』で述べたことだが、「もし地球人があなたがたを撃ったり、撃ち落とせる射程距離内に近づいたりしたら、あなたがたは自分の持つ力で自衛しますか」と私がその男たち″に(異星人たちに) 尋ねたとき、彼らは答えた。

「いいえ、私たちは死ななければならないでしょう。理解をしていない兄弟を利用することはできないからです」

イエスも十字架にかけられたとき同じことを言ったではないか。「父よ、彼らを許してやって下さい。彼らは自分たちが何をやっているのか知らないからです」

我々なら復讐を頼んだことだろう。

見知らぬ”旅人”をもてなそう

次の点を私は特に強調したい。各国政府の要人で、その理解力がどの程度にせよ、宗教的教育を受けていない人や”至上なるもの(神)”に敬意を払わない人を私は知らない。ところが、そのような要人たちが地球へやって来る人々を攻撃するということになれば、そんを人はいったい何を考えているのだろう。もしその人々が自分の聖書や宗教教育を正しいと信じているとすれば、地球人を導くために天空から天使たちがやって来ていること、最後の時代にふたたび来ることになっていることなどを当然彼らは知っているはずである。異星人たちが予言を遂行するためにかつて地球を離れたのなら、また地球へやって来なければならないということを彼らは知っているはずだ。

▲ジョージ・アダムスキーによるイエスの肖像画。
▲ジョージ・アダムスキーによるイエスの肖像画。1977年8月、メキシコ市を訪れた筆者はアダムスキーの高弟であったマリア・デ・エルダ夫人宅を訪問した。夫君はメキシコの不動産業を営む大財閥で城のような大邸宅である。ここの2階の特別室に案内された筆者は、アダムスキーが描いてマリア夫人に贈与したというイエスの等身大に近い油絵の壁面を飾る大画面に圧倒された。画才のあったアダムスキーが渾身の力をこめて描いた力作である。大超能力者でもあったアダムスキーが、ある日過去世を透視していたとき、突然四角な窓枠に似た囲いの中にイエスが出現してアダムスキーを見つめたという。その記憶を元にして描いたのだとマリア夫人が説明してくれた。ふだんはこの絵は秘蔵されており、少数の特殊な人だけに見せていたと言い、日本人でこの絵を見たのは筆者だけだと語っていた。その後夫人は逝去したが、遺言によって絵のキャンバスははずして巻かれ、遺体とともに棺に入れて焼かれたという。

そうなると、結局異星人を撃つことによって神の御手に挑戦していることにならないだろうか。現在我々を援助するために派遣された使者たちをなぜ殺そうとするのか。我々はクリスチャンであると自称するのならば、我々の救援者になるかもしれない天使たちを撃つのをやめて、キリストの法則(宇宙の法則)に従おうではないか。

ルッペルト大尉は地球人がUFOを攻撃した例(複数)を述べている。彼は多くの例をあげていないけれども、UFOは何度も攻撃されたのだ。ある噂によると、円盤のなかには撃ち落とされたのもあって、地球人の無知のために生命が犠牲にされたということである。

神ご自身の英知に照らして、また名ばかりのクリスチャンとしてではなく真実のクリスチャンに照らして、状況全体を再検討してみようではないか。そうすると我々はげんに生きている時代や、何のために準備しをければならないかということなどを理解するだろう。理解をするときに我々は自分たちにとって役立つことをなし、創造主とその目的のために奉仕することになるのだ。そのときこそ我々は自分を真実のクリスチャンとみなすことができるのである。

異星人たちは真理を知りたがっている人々を援助するために来ているのである。だから彼らを無視しないことにしよう。救われるためにできる限りの事を学ぼうではないか。ただし何らかの救いがをされるとするならばだ。このことはまた、人間性を救うことによってこの真理が宗教を救い、さらに教会をも救うことを意味するのである。

天空から来るあの人々にたいし友好的な感情を促進することによって、我々は彼らを仲間として歓迎し、各家庭は彼らとの対面の栄に浴し得るのである。『ヘブル人への手紙』にも次のように述べてある。

「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにしてある人々は気づかないで御使いたち(異星人)をもてなした」

多数の人が確かにすでにこのことをやっているし、多くの人は知っていて彼らをもてなした。しかし我々が彼らにたいして正しい態度をもてるようになれば、だれもが彼らをもてなすことができるのだ。

キリストの教えをためらうことはない。その教えを説き、そのとおりに生き、その知識を万人の心に近づけようではないか。地球的な角度からではなく、また教会や宗派的な角度からでもなく、普遍的宇宙的な角度からだ。イエスは言ったではないか。

「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らもわたしの声に聞き従うであろう。そしてついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」 (『ヨハネ』10・6)

十二使徒も別な惑星から転生してきた

各惑星は間違いなく人類が住むように作られたという確実な証拠が聖書にあげてある。生命は自然の偶然事ではない。『イザヤ書』45・18に次の箇所がある。

「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも作り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人の住み家に作られた主はこう言われる。『わたしは主である。わたしのほかに神はない』」。(訳注=この部分はある日本語訳聖書の文章を引用したが、英文聖書と対照するとたいへん拙い訳になっている。このような例が日本語訳聖書には多いので注意を要する)

神がこの世界(地球)を人間が住むように作られたとするならば、他の惑星群をも人間が住めるように作られたに違いないと考えるのは合理的である。

この世界の者でない人たちが我々のあいだに混じって住んでいるという私のこれまでの声明を聖書は裏付けている。

『ヨハネによる福音書』17・14に次のような言葉がある。

「わたしは彼らに御言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らも世のものではないからです」

17・16もこの言葉をくり返している。これら各節は使徒たちのことを言っているのであって、地球人のなかに住んでいる異星人のことを意味するのではないと考えている人もあるが、この場合はそうではないことがわかる。なぜなら語り手のイエスは「私が世のものでないように」という言葉に重点をおいているからだ。

以上は、イエスとともに働くという特殊を目的のために、十二使徒も別な惑星から来て地球で生まれかわったことを意味することになる。彼らは前生の体験の記憶を一部分かまたは全部失ったままこの世界に転生する人々の先駆者であったのだろう。

聖書に現れるUFOと天使

母船でさえも聖書中に”飛んでいる巻物”と記されている(『ゼカリヤ書』5・1〜2)。その時代において葉巻型宇宙船にたとえることのできるありふれた物としては、羊皮紙の巻物ぐらいのものであった。『ゼカリヤ書』6・1には、四両の戦車が2つの山のあいだから出て来たとある。これらは『エレミヤ書』4・13の戦車と同じものではないだろうか。ここでもそれらが雲のようにやって来て、つむじ風のような戦車とワシよりも速い馬を従えていることがわかる。ワシとか雲とかを引用しているのはその戦車が飛んでいたことを示すものである。

ここで聖書のケルビムについて注釈を加えてもよいだろう。前に述べたようにエゼキエルの見た不思議な飛ぶ機械はケルビムであった。これはある聖書学者達によると、ある種の天使であると考えられている。しかしこれは輸送の手段として用いられたもので、数例ではそれが何かの船であることを示しでいる。エゼキエルのケルビムはやはり円盤なのである。

ケルビム(第2階級の天使)の別な例は『サムエル記下』22・11に見い出される。

「彼はケルビムに乗って飛び、風の実に乗っているのが見られた」

これに似た例は『詩篇』10・18に記録されている。ここではダビデ王が主に助けを求め、主はケルビムに乗って到着する。

「主はケルビムに乗って飛び、風の翼に乗って飛んだ」

その特長ある火の雲は主に付き添っている。明らかに古代の教会はケルビムとは天使であると信ずるようになったらしい。

それが実に乗って飛ぶと述べられているからだ。古代人は宇宙旅行者の性質について知識を持たず、宇宙船をある種の火を吐く動物だと思っていた。彼らは天空を航行するために作られた機械的な建造物のことなどを考えることはできなかったのである。現代の自動車でさえも古代人にとっては別な種類の天使かケルビム、またはおそらく悪魔として記述されたことだろう。

肩から翼の生えた、長く白い衣服を着た天使の概念が、そんなふうを絵を描いた大画家たちによって現代人の心に吹き込まれたのである。しかし聖書はいつもそれらを他の世界から来た普通の人間として述べてきた。

我々が望むならば我々も宇宙から来る訪問者と同じようになれると確言されている。『詩篇』82・6と『ヨハネによる福音書』10・34の両方に「あなたがたは(人間はすべて)神々である」と記してある。だから我々は堕落した位置から登り返す力を持っているのだ。その宿命の遂行のために力強く努力しようではないか。

―終わり―

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